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2020年6月7日「火垂るの墓」記念碑の除幕式を行いました。

新型コロナウイルスの渦中、関係者のみによる式を計画していましたが

近隣の方など約100名の方がお越しいただき除幕を祝っていただきました。

野坂昭如氏の小学校の同級生のご夫人も駆けつけてくださり、副碑(野坂昭如肖像)

の除幕をしていただきました。

実行委員会では小冊子『小説「火垂るの墓」誕生の地』を発行し、建碑にご協力いただいた方にお配りしました。

記念碑には御影石を使用し主碑はサクラ御影、周囲は丹波鉄平石台座は2冊の本をイメージし文学碑の雰囲気を出しました。周辺には「アンネのバラ」を植え、戦争に翻弄された「清太と節子」に癒しを添えました。

思いがけなく高額の賛同者のご協力を頂き、野坂氏の作品の力に依るものと感謝しています。

ご寄付は継続しております。よろしくお願い致します。

土屋純男

清水 孝一氏の戦争体験

西宮市清水町在住の清水孝一氏は、旧制芦屋中学3年生の昭和20年(1945年)学徒勤労動員で西宮の阪急苦楽園口駅から尼崎・塚口にある日本パイプの工場に通われていました。その道すがら自宅付近のニテコ池の畔で中学生の野坂昭如少年を見かけたり話をされています。野坂少年は、昭和20年6月5日の神戸大空襲で被災し、幼い義妹を連れて西宮の親類宅に身を寄せ、昼間はニテコ池周辺で過ごしていたようです。この戦時の貴重な戦争の日々の記録が残されています。

 神戸大空襲から72年後に朝日小学生新聞(2017年6月5日付)と朝日中高生新聞(2017年6月4日付)に掲載されました。昨年12月2日付の朝日新聞にも詳しく報道されました。朝日中高生新聞と小学生新聞には、ニテコ池を訪れた清水さんらの写真が掲載されています。

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​西宮市 空襲地域 1945年 国立公文書館デジタルアーカイブ

​西宮上空を攻撃のために飛行するグラマンF6F。左上部には、鳴尾海軍基地と川西航空機鳴尾工場が確認できます。滑走路は100m×1200m、2本コンクリート舗装。画面中央に甲子園球場が見える。

戦闘機グラマンとは、ご存じの方も多いと思われますが、正式にはグラマンF6Fヘルキャットと言う艦上戦闘機で、アメリカ海軍が第二次大戦中盤以降に使用された。零戦と大平洋の空の覇権争いに終止符を持たられせた戦闘機である。

戦争末期、艦上戦闘機グラマンに野坂昭如氏のように道路上で駅ホーム等で田んぼでとあらゆる所で無差別に機銃掃射を受けた経験のある方は多く聞いています。その戦闘機はグラマンF6F戦闘機です。空襲という用語は戦略的、作戦的、戦術的な局面にわたって幅広く使用されるが、その攻撃の形態から空挺作戦(Airborne/Airlift)、急襲(Raid)、特殊作戦(special operations)、航空攻撃(air attack)の四つの種類に区分される。

 野坂昭如氏の空襲(空中から目標に対して爆弾の投下や機銃掃射を行うこと。)に関する記録は、火垂るの墓では警報が出ると防空壕に逃げ込むと少ないが、小説「ひとでなし」には、7月に入ると敵小型機がまず気まぐれに阪神間の上空を通過し、時には急降下特有の爆音で市民を脅かした。まだ食べ物ものもあり僕と律子と妹は病院通いを口実に毎日出歩く。二度甲山上空から飛来したグラマンが狙った訳でもないだろうが夙川堤防と僕たちの上をとびさった。かさ上げされた堤防の内側に2メートルの張り出しがある。キーンと響きグォーンと低い轟音とそのばくおんに僕は妹を背負ったまま律子とその張りに飛び降り律子に多いかぶさった。

 国道では、単車両のオモチャのようなでんしゃを狙ったのか、一直線の国道上空すれすれを敵機が飛来、前もって音がなく突然グワーンと響いてたちまち消えさり、この時は防火用水の​横に倒れこんだ。

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自伝的小説である。

内容は、空襲で瀕死の重症をおった養母は、新潟の実父のところに行くとわかり言葉少なげに別れたあとの養母の幸薄い人生のストーリの

第一部 焼夷弾に焼けただれた養母。

第二部 哀しみの霧に包まれた生母を少年院送りから自分を救い出してくれ新潟で温かく迎えてくれ、実父が嫉妬するほど親密にになった時期もあったが、その後、ホームレスになり野坂とトラブルがたえなかった継母 

第三部 ぼくを抱きすくめた継母 

第四部 ホームレスになった継母

で構成されている。

​ 野坂昭如の文体が変わったように思われるセンテンスが短く、そして平明である。偽善的な感じがなくなり、むごたらしいこと、いやらしいことから眼を背けることなく、戦中戦後、生母と生き別れた後、率直な描写で養母と継母とのもつれ絡まり合う複雑な家族関係を戦後の混沌としの状況下で生きてゆかざるを得なかった人生を直視し自らの言葉で生きた証を書き込まれている。

 

 富岡多恵子の書評では

 小説家野坂昭如は、ここに到って生のバランスを辛うじてとってきた小説というつくり話しの枠をはずした。枠をはずすことこそ出現する小説をちゃんと顕示せしめた。

僭越を承知で云えばこの小説によって宗教的な感動(沈思)に似たものを与えられた。

とある。

      アドリブ自叙伝 筑摩自叙伝筑摩書房 1980年刊

 この書は、戦時の人間の記録として識者に高く評価されている書である。内容は、養父の思い出、小学校の初恋、わが性の目覚め、戦時下の中学受験、メンタ電話事件、迫る空襲の脅威、3月17日神戸炎上、焼け跡の赤いスカート、6月5日の惨劇、闇市とスクリーン、餓えと盗みの日々、慟哭のB29再会記が掲載されている。火垂るの墓にも登場する6月5日の神戸の惨劇は、6時頃から25機や30機の編隊で爆音をあげ来襲すると傲然たる音響があがり市内に猛煙があがる。20機30機と来襲ごとに市内に猛煙があがり市内は一面火の海と化して旋風が渦巻いた、空襲は神戸にはじまり御影そして芦屋、西宮へと向かうB29の無差別攻撃は日本の敗戦の終末の光景を被災を受けた上田浅一氏の日記の言葉により現代に残している。

 野坂昭如の書には記載されていないが、戸市文書館の資料によると、この日市内に投下された焼夷弾、破粋弾は3079.1トンと米軍の作戦任務用務報告第188号から閲覧出来る。

さらに7月4日には、川崎重工、三菱重工業、神戸製鋼所、国鉄鷹取工場にプルトニウム型源原爆で爆薬を詰めた模擬原爆が投下されていた。この模擬原爆は神戸のみでなく日本各地で記録されている。

戦後75年の記録の執筆を依頼され戦争の歴史を調査中に発見したことで知らされた。現代人のほとんどは信じられないであろう歴史的事実であるが・・・・・・。

 野坂昭如もこの神戸大空襲に遭遇し義父を亡くし義母が火傷を負いその後、妹とともに西宮へ避難している。

 戦前から戦後に生きるためにたどった奥深い歴史の暗部と人間の記録が残された書籍である。

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8月6日(月) (目標:西宮・芦屋・御影市街地)

 御影町・魚崎町・住吉村・本山村・本庄村(現神戸市東灘区)から、芦屋市を経て西宮市・鳴尾村(現西宮市)にいたる地域、いわゆる阪神地域を一つの市街地目標として爆撃。中小都市市街地への焼夷弾攻撃の一つに位置づけられる。と克明に空襲の記録が報告されている。

火垂るの墓誕生の地記念碑建立運動に参画し野坂昭如著小説「火垂るの墓」がいかなる動機で執筆されたのか そして、絵本化ねされ翻訳され世界各国で読みつがれアニメとして映像化もされ 世界各国で上映されている。

 記念碑建立のために全国から多くの賛同を得たこと、建立後多くの方が西宮満池谷の西宮震災記念碑公園にお出でになり火垂る墓誕生の地記念碑を訪れる方も多くみられる。著者が描いた戦争の悲劇のいかに継承させるかその課題への渾身の魂の記録となっている。1997年九月一日中央公論社発行「ひとでなし」から著者が書き残した戦争の記録を参考にしてその作品の舞台 を歩き戦後76年が経過し戦災で瓦礫とした化した街並は閑静な住宅地となり高層マンションや店舗が立ち並び面影は失せているが著者の残した思いを引用し戦争の日々を掘り起こしてみた。

 

この自伝的小説は 小説火垂るの墓 執筆後の作品であるが作者野坂昭如が神戸市立第一中学校三年生のとき神戸市灘区中郷町で住んでいた時の戦争体験が克明に記載されこの経験を織り込んで特有の語り口で国民―不幸の奈落に突き落とす戦争の不条理さとリアリティをもたせるために構成されている。

 小説火垂るの墓の創作意図が深く理解していただくために作品から引用して野坂昭如の思いを考えて書き込んでいる。

 5月21日の爆撃空襲では、中郷町2丁目南側の徳井町3、2、1丁目に外れ弾が落ち、さらに国道の向う、阪神石屋川駅周辺は250キロ、1トン爆弾で材木の山と化した。

 僕はこの日学校にいた、爆弾攻撃は正確な日時、目標まで予知されていて、前日は川西航空機工場のジュラルミン板、生ゴムの塊りを疎開させる作業に従事、当日は授業。掩体壕に入っていて、御影、魚崎、本山、本庄、深江から通う生徒直ちに下校の指示、西から歩いて中郷町に辿りついたぼくは家まで何の異常も認めず内に入って驚いた。

 家中埃まみれ、立て流しの台、便所の朝顔がずれている。大阪から急遽帰宅した養父は夕刻動き出した省線も摂津本山どまり、東から国道沿いに歩きあたりの惨状に家も駄目と覚悟したらしい。

6月5日は家の焼かれた空襲後をはじめて見る。焼夷弾攻撃につきものの炭人形、真赤で炎のゆらぎさえ見えた。八畳、六畳の床下壕から妹を背負った養母が脱出でききたとは到底思えない。お父さんは一人逃げたんじゃないかと養父を気づかう。

爆発後何時間経っているのかまったく傷ついた人が木の枝を杖に裸足で焼け野原を助けをもとめて歩いている。お父さんはいないかと探し求めたが判らない。空は薄曇り、太陽の在りかを確かめた覚えはない。歩き出すと、たちまち熱気に包ま れたが狭い道でこの程度なら、少し先の幅6メートルさらに三丁目の北側を通る8メートルの道は大丈夫、だが黒焦げの死体の前で足が止った。国道へ戻り西へ歩いて成徳の正面に至る道じゃなく裏門を目指した。裏門近くの家並みは強制疎開で取り壊されているから楽と判断。この時、国道を成徳に向けて歩く避難者 の姿はない。

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

校庭は、火傷で傷つき焼けただれた人で溢れごったかえしていた。見知った顔を探したが一瞥(いちべつ)したところない。人混みを避け東北の角の鉄棒のある砂場へ向った。鉄棒にぶらさがり巧みだった思出にふけったがあらためて両親の死を確信した。

「三丁目の人二階にいてはるわ」成徳で同学年の女児でいとちばん成績の良かった今は県立第一高女の女の子が声をかけてきた。「二階のどこ」「進藤学級の部屋、張満谷さん宇草学級やったでしょう。その前」ぼくが一人でいることを不審に思ったらしくかっての同級生が語りかけたのだろう。この数日同じ異性とまともに口を聞いたのはこれが初めてだつた。

「お母さん眼をやられて洗うてもろてんけど天幕に海軍の軍医さなとお異性兵さん来てはる。私も手ェ火傷した」まったく無表情に包帯にくるまれた左手首から先に見せた。右でおおい胸にかかげていたのだがそれまで気がつかなかった。自分の卑怯さに愕然とした。

 彼女はぼくを導くように人混みーを縫い彼女はひどく大人びたものいいで筵(むしろ)の上に積み上げられた握り飯を配る年配の女にぼくの住所をつげ二つ受け取った。「私もう食べた」二つ渡した。大きなお握りを両手に一つづつ持ち焼かれるのなら一番良い誂の制服を 着ればよかったのだ配給のボロ編上靴も上等なのを持っていたが古いのを履いていたことを悔んだ。

本来この日は神戸港東側の小野浜へ最新高角砲堰堤の構築というよりただ砲の周辺に砂山を盛り上げる作業に出かける予定だった。二階の以前は6年女児進藤組の教室に女学生の母は端然と座っていたが養父母の姿はない。すぐ廊下へ戻り落ちていた新聞の号外をしゃがんで読むと米機B29 150機うち65機を撃墜破小野浜の高角砲は活躍したのだろうか。正門に佇み東側を見ていた 暮れるにつれ焼跡の燠が赤くきわ立ちやがて燠以外はまっくらなった。校舎にもどり父や母をさがすがみつからず勝手の心得た学び舎だ 我が身のおきどころに窮した。一人になるなら屋上。ガラ空きとなった校舎に戻り父母を探しもとめ続ける。三階から一階分 中央が高くなっていて講堂 ここには誰もいない ぼくは講堂の扉から三階屋上に出た 上から見ると焼け残った西側はまっ黒 東と南に点々と無数の火の色だった。「張満谷何してんのん と恩師の金沢先生と出会い先生とともに廊下を歩き暗い工作室の教室をながめ怪我亡くなった人の遺体を見つめた。この夜の工作室焼死体改の場面はあやふやで、その後宇草 金沢先生と何をしゃべったかも覚えていない、ぼくは屋上で寝た。

 翌日の午後、元衛生室の前の廊下を通り過ぎようとして「昭ちやん」と呼ぶかすれた声が聞こえた。衛生室の床に全身包帯でくるまれまるでミイラの写真でも見ていたのかととっさにそう思った姿が四つ一つの横には、包帯を巻いた妹が寝ていた。気がつくと妹を抱き上げていた。

 名は恵子という、家へ来たのは昭和19年6月生後二ヶ月と教わった、恵子を抱き上げたぼくの足許に腫れ上がった唇 左眼 もんぺに包まれた左脚はむき出しの養母がいた。養母は防空壕から出る時火が落ちてきて火傷をした、と守口の養父の兄の奥さん語っていた。養母は表の八畳の床下にL字に掘られた壕にいた。表の庭には出入り口がある。ぼくが家の中すべて火の色と見た時、二階の硝子戸はまだ無事だった。「お父さん お母さん」と呼んだ時 妹を背負った養母はまだ壕にいたのだ。

 以後 一日と数時間元衛生室で養母と恵子と過ごした、覚えているのは左手も軽い火傷を負いその手当てのために切断されていたことだった。

サファイアの指輪と懐に持っていた紙入れを「失くさないように」と渡し「葡萄状球菌に効く薬サルファ剤」をどこかで買えないかと養母がいったこと、そして守口町に疎開している祖母に知らせすぐ来てもらうよう養母がいったことである。

 六甲道駅から守口へ向かった。疎開していた千林の南川家では、祖母は詳しい様子の判らぬまま神戸へ戻ろうとしていたらしい。かなりおそい時刻だったが戦時下外出にふさわしく身なりを整えていた。

 ぼくの顔をみるなり「善三は?」とたずねた。ぼくは自分でも思いがけず残酷な気持ちで「行方不明」とだけいった。「行方不明、どうして」

「まだ会っていない」まず農村地帯だが灯火管制うす暗い玄関に立ったまま「そんなことありますかね」ぼくはわざと溜息をつき

「お母さん大火傷で成徳にいるけど恵子もちょっと怪我して」自分だけ五体満足の疚しさはない。

「お母さんは動けないしおばあさんに来て欲しい」

「そりゃ行きますよ善三がイクエフメイだなんてバカな何いってんだい」祖母は玄関をとびだし数63歳とも思えぬ早足で千林駅へ向かった。

 京橋で城東線に乗り大阪駅で下車して明石行き電車に乗り換えで六甲道駅へ祖母を荷物のように混雑する電車に乗車し引っぱってきた。

 四日目空襲で重症を負った人は亡くなり成徳無国民学校へ避難していた三丁目の人たちは早々とかねて用意の落ち延び先へ移っていった。負傷者をかかえた家族だけが元物象教室に残っていた。

 金沢先生は毎日恵子のため砂糖お粥を持ってきてくれた。祖母が養母と恵子の世話し食い物は握り飯と牛缶 三日目に罹災証明書を受け取り これで省線の遠距離切符を優先的に買える。米穀通帳も再交付また罹災者特配の毛布一枚のみだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

阪急六甲駅前に客待ちの人力車を呼び養母を病院へ移しぼくと恵子は高瀬家に身を寄せることにした。包帯交換はなく火傷を蝿が好むとかで汚れもさることながら蛆がすでにわいていた。

阪神間で入院できるのは夙川の海へ注ぐ香櫨園の回生病院だけらしい。祖母と妹は阪急電車で夙川駅に向かいぼくは養母を乗せた阪神国道を東へ向かう人力車のそのかたわらを速歩で從った。どこまでも国道沿いの両側は焼跡だった。 5月21日爆撃攻撃の後 所々に材木の山が出来ていたが片付ける前に焼けて瓦礫が250キロ爆弾の穿った直径20m深さ7・8mの漏斗孔を埋めたのだろう真っ平らだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

6月9日の夕刻二階個室に入院祖母が付添いぼくと妹は満池谷の高瀬家に4・5日お世話になるつもりでいた。回生病院では個室が空いていた。待合室には診療を待つ人も養母の2ヶ月近い入院中あまり見かけなかった。医者も薬も薬も極端に不足養母の治療も包帯の交換だけ この半月の間に少しづつ口がきけるようになった。

 焼跡から空襲直前に埋めた大きな火鉢二個と茶箱五つにびっしり詰めこんだ食いものを取り出し律子とともに高瀬家の玄関へ運んだのが三日目 これはさながら鬼退治の後の桃太郎 大八車に山とつかでもまだ焼跡に残っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

黒松白鹿の一升瓶10本 オールドパー2本 米2斗 梅干しの大瓶 食用油一斗缶 練乳はじめカニ 鮭 バイナップルの缶詰 干し芋 乾パンの箱 茶 各種瓶詰 乾麺 南京豆 日持ちのする食い物 調味料衣類は入っていない。この宝の山が高瀬家に妹と二人腰をすえる とりあえずの保証となった。未亡人もまさか7月すえまで居続けるとは考えていなかったろう。

焼跡の穴に納めた品を盗む奴らがいると律子がいい 翌日二人でとりあえず出かけた。焼跡の宝拾いの途中回生病院へ米 缶詰 調味料などを届けた。大八車に律子を乗せ挽き歩く国道に焦茶色の単車両国道電車が追い抜くその後姿はお尻をふり立てるみたいで歩くスピードのせいぜい倍他に荷馬車リヤカー自転車にたまさか行き会う 歩道にも人影は稀 芦屋川にかかる業平橋の角に黒く高い塀をめぐらせた屋敷があり山へ向かって広壮な邸宅が続くが人はいない。住吉川近くで焼跡がはじまる。石屋川の北東角に公会堂そして中郷町へ入るのだが空襲後10日程度だったあたりは誰もいない。3月17日の空襲後は壕舎住まい家族をよくみたが南から徳井 中郷 大和町市電従業員宿舎一軒残ったあたりでいちばん大きな家と成徳の校舎だけ。西南方向に小泉製麻工場南側海に近い酒蔵までほぼ焼跡。

 律子は神戸中心部の焼跡を少しみただけこんなに広大ななんにもない赤茶けた焼土は初めてだという 国道を北へ折れ律子は大八車を降り挽き棒に片手を添えた。

 「ここやん?昭ちゃんの家」「うん」ぼくは本来の敷地より

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

広いように指で示した。お向かいの石塀だけが二軒分屏風のように突っ立つ いちおう土で掩いかくしていたが穴の火鉢木箱に海苔の缶詰採卵の箱の包み他に福神漬け 塩辛の瓶 胡麻の袋 塩壺 高野豆腐 大豆と小豆の袋 つつがなく何台もあったカメラ 二階の違い棚の瑪瑙の置物シナの青玉という壺養父の好きだった西洋の硝子器いろんな絵その価値を考えたわけじゃないが糠味噌糠まで穴にしまいこみながらこわれるからと疎開させる荷物の布団の間にも納めず家に置いたままになっていたモノを思出した。

 律子は一段落の後 焼跡を珍しそうに検分してこれについては3ヶ月前焼跡整理の経験があったからぼくにはよく理解る 焼けた瓦礫ら埋めつくされといってもそれほどの生活の断片が色や形が変っていながら残っている。玄関のあたりを掘れば「お父さんの死体があるかもしれないスコップと鍬があるからぼくはあわてて命令口調でもう行かな車返さならんし」「うん火鉢持っていかんの?」「あったってしゃない」穴を埋める気力はうせていた。

 前日にくらべればずっと少ないが律子は、福神漬を指でつまみ出し食べた。空襲の朝まで台所の揚げ板の下に梅酒 梅干しの瓶 糠味噌の樽 缶入り食用油 流しの下の戸棚に米の二斗缶 これはぼくが市場の福引であてた二等の商品 塩壺 酒樽 流しの横に表面赤銅でおおった冷蔵庫があり風呂は五右衛門風呂だった。炎に耐えたはずだがひらっべったい庭の土上では確かめられない。

 おとうさんの死体を思い浮かべた 焼跡の上に以前の家のたたずまいはありありとよみがえった、行こうと自分でいいなからぼくは立ちさくし以後九月福井から大阪へ戻るまで中郷町を訪れていない。

 

参考文献 

  ひとでなし 野坂昭如著中央公論社 1997年9月1日

          婦人公論1996年9月号から12月号掲載

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