
野坂昭如とラクビー
2015年12月19日東京青山葬儀場で行われた野坂昭如の葬儀告別式においてかっての草の根ラグビーの世界にとどろいた「アドリブ倶楽部」の榮ある部歌がチーム旧友により遺影の前で唄われた。
妻を忘れ 筆を捨て
鍛え/ \て幾星霜
時に至れり初陣の
花のトライや君知るや
嗚呼壮年の血は燃ゆる
その名もアドリブ アドリブくらぶ
アドリブ倶楽部は、野坂昭如が40歳のときに創設したラグビー倶楽部である。
作者は、吉岡治、作曲が櫻井順。1973年10月初の講談社ラグビー部との体外試合において披露された。野坂昭如は背番号10のスタンドオフで活躍した。
早稲田大学文学部在学中貧困のあまり食事にも事欠き日々の生活をしていたがラクビーには関心がありラグビー部のタックルやスクラムの練習、バレードする姿とそして試合をフエンスの外から、ラグビー部に入りたいものだと羨望の眼差しで見つめていた。と語っている。
後年、「管理化された世の中でもとも人間的なスポーツであり、人間をとりも戻すゲームと言ってよい。」と文学者らしい言葉でたたえている。2019年ラクビーワールドカップで、健闘した日本のチームもさることながら試合を見てファンが増加したことも理解できることでしよう。
最後まで文学者としての生きた野坂昭如
12年以上の闘病生活を過ごした。それでも妻の手を借りての口述筆記によって作家活動を続けた。文明論や回想記、時事エッセイ等の執筆を2015年12月9日の直前まで続けられた。
「あせらない。あせらない。と妻が呪文のように唱えるなか、「ちっともあせっちゃいません。もう少し寝るか。この国に戦前がひたひたと迫っていることは確かだろう。」と日本の未来を憂えながら眠るように静かに逝ってしまった。
野坂昭如の思い出
21歳の元タカラジェンヌの暘子さんが飛び込んだのは、想像もつかない波乱万丈のの新婚生活だった。野坂昭如と過ごしたその日々を克明に記録した思いを
「うそつきー夫野坂昭如との53年」
野坂暘子著 新潮社刊
と題して書に残している。
彼女は、野坂昭如について気が弱い、ついでに僻み、妬み、嫉み。これはほくのキャッチコピー。努力、忍耐、根性は到底似合わない。いつか人生のどこかで辻褄が合えばそれでいい。と私に語ってくれたあなた。
酒の力借りながら、その都度いろいろなものを酒の力を借りながら捨ててきたとも、浴びるように流しこんでいたアルコールも黒い眼鏡も隠れ蓑、嘘ばかりついていたら何が本当やら。気づけば狼少年が狼爺いになって本当に逝ってしまった。
お調子者、いいかげん、ドン・キホーテ、いいんじゃない、夢を追いかけて突っ走る男の姿は魅力があったけれど、妻の役は正直冗談じゃなかった。
作家であり、ラグビーマンであり作詞家であり歌手でありタレントであり政治家であった野坂昭如の人生を妻として支え続けてきた妻野坂暘子さんの語った言葉は素顔の野坂さんの魅力を語る優しい言葉は深く心に響き愛に満ちている。
ラ・パボーニのこと
「古本屋が開いていて古い雑誌を買い、川にかかる橋を渡りすぐ東への坂道を下がって200メートル先に、喫茶店「パボーニ」があった。
戦後、しばらくして訪れて、この店は昭和9年画家大石輝一が開き、その妻が経営し、戦時中阪神間で閉店しなかった只一軒の店だと知ったのだが、律子が知っていたのだろう。ふらっと入り人工甘味料の寒天と怪しげな珈琲が出された。
カウンターに、ラッパのついた蓄音器があって、僕達を見ると女主人が時折り、時局がらドイツの曲をかけた。常に客はいない。後年、女主人に僕と連れの女に記憶はないかとたずねると、いつも彼女を連れてきてえらいませた学生やと、ご主人と話しをし僕達のために寒天の他買出しに出かけケーキを作ったという。ケーキの覚えはない。
出典「ひとでなし」中央公論社1997年9月1日発行に登場している。
現在のパボーニの跡です。高い棕櫚の樹が残っています。5トンコンテナーが一つ置かれています。


夙川にかって営業していたが阪神大震災で倒壊したためカフェサロンを受け継ぎ堂島で営業したが堂島で継続している北新地 CASA RA PAVONIです。

灘区 高羽町から撮影

灘区中郷町
この小説は、小中学生時代を、この町で過ごした自身とその家族をモデルに、戦時下の生活を克明に再現した長編である。著者の分身である鶴間征夫の目を通して、養父母と祖母、乳幼児だった義理の妹と暮らした時間が、防空演習、防空壕掘り、隣組の集会、闇物資の調達といった戦時色を強める生活を丹念に描かられている。
昭和21年の春と夏に野坂昭如は訪れている。その記録は、アドリブ自叙伝に書き残している。
中郷町一帯は、一軒の地主が所有していて、掘立小屋や壕舎生活の者はいない。雨水で南北の通りは渓谷のごとくえぐられ、夏は一面の雑草、一年前の住まいがよく判らない。
神戸商大(現代の神戸大学)の下に進駐軍士官の家族の住まいがある。春日野墓地張満谷家代々の墓はそのまま。と残している。

野坂昭如が通学した神戸市成徳小学校

御影公会堂
「ここに俺が住んでたんか、ほんまかいや」
1945年神戸は何度となく米軍機の空襲に見舞われた。とりわけ3月17日、5月11日、6月5日の大規模爆撃は、神戸大空襲と呼ばれ。
神戸市街と住宅地に3000トンもの焼夷(しょうい)弾を投下した6月5日の大空襲時、中学3年だった著者は、神戸市灘区の中郷町に暮らしていた。そこは、北に京阪神急行電鉄、省線の線路を、南に旧阪神国道、阪神国道電車そして阪神電鉄が走る新興の住宅地だった。

逃げ延びた少年は、家の近くを流れる石屋川の堤防から我が家の方角を見て「みんななくなってもたか」とつぶやく。
現在の灘区の中郷町から石屋川を隔てて東灘区の御影石町一帯(当時は、武庫郡御影町であった。現代の東灘区は、昭和25年10月10日神戸市と武庫郡御影町、住吉村、魚崎町、本山村、本庄町が合併して成立している。
今は閑静な住宅地となり、高層のマンションや戸建ての住宅が立ち並ぶ。阪神大震災で多くの家屋が倒壊したこともあって、戦時下の姿をしのぶよすがは、石屋川と御影公会堂、ほとんどない。「大空襲の時は僕の悲劇の記憶をどう今に伝えるか。」その課題への渾身の回答がある。私達は野坂昭如の小説の所縁の地を歩けば当時の面影がしのぶことが出来るのみである。
1945.6.5の惨劇
上田浅一氏の日記から
午前5時30分警戒警報発令。播磨より東進の一機は、明石、神戸を経て大阪へ。阪神地方を旋回中本部へ。紀州沖に7目標近接の報あり。6時5分空襲警報が発令され更に潮岬、室戸岬沖、南方海上に各数目標目下紀州沖に集結中。阪神地方警戒を要する等刻々に情報あり。続いて四国海上に15乃至20m目標近接の報入り情勢只ならず。7時半我が上空に最初の20機来襲すると見るや轟然たる音響とともに市内各所に猛煙上りラジオはばったり止んで水道断水、続いて20機30機と来襲毎に天地を揺する。爆音と運動場の樹々も一面火の海と化し猛煙は天を覆って凄悲なる修羅の巷となり火煙物凄く旋風が渦巻く。
神戸市史の記載
此の日の空襲は、3月17日の大空襲を遥かに越え、来襲敵機も6倍に近い350機を数え20数編隊で来週。大量の焼夷弾、中小爆弾を持って執拗に絨毯爆撃を行った。このため全市は黒煙に覆われて20機30機来週ごとに轟然たる爆音とともに猛炎が上がり火災旋風が渦巻いて火気と煙に息もできないほどの物凄いものであった。
アドリブ自叙伝 野坂昭如著 筑摩書房1980
野坂昭如の言葉
僕は、焼け野原の上をさまよった。地獄を見た。空襲で全てを失い、幼い妹を連れて逃げた先が福井、戦後すぐから福井で妹が亡くなるまで明け暮れについて「火垂るの墓」という30枚ほどの小説にした。文字なり喋るだけで何かを伝えるのは難しい。それでもやはり僕は今も戦争にこだわっている。
1963年「小説エロ事師たち」で小説家としてデビュー
新潮社ホームページでは、
「お上の目をかいくぐり、世の男どもにあらゆる享楽の手管を提供する、これすなわち「エロ事師」の生業なり――享楽と猥雑の真っ只中で、したたかに棲息する主人公・スブやん。他人を勃たせるのはお手のものだが、彼を取り巻く男たちの性は、どこかいびつで滑稽で苛烈で、そして切ない……正常なる男女の美しきまぐわいやオーガズムなんぞどこ吹く風、ニッポン文学に永遠に屹立する傑作。だと紹介されている作品である。
この作品は、三島由紀夫、吉行淳之介氏らに絶賛された。
野坂昭如と三島由紀夫の類似性として二人とも妹を亡くしたため原罪意識が常に引いている。2人から知的圧迫感、情の細やかさと全く申し分のない理想的な兄を感じさせてくれる。
野坂昭如は、政治的な立場を異にするが三島の行動力に心を打たれた一人だった。「このままいたら日本はなくなってしまう、かわりにかにらっぽで抜け目のないだけの経済大国が極東のい一角に残るだけだ。」と昭和45年11月25日市ヶ谷の自衛隊市ヶ谷駐屯地バルコニーで演説し自決した。三島由紀夫はノーベル文学賞候補になるなど、日本語の枠を超え、海外においても広く認められた作家であった。
焼跡闇市派の心情
直木賞受賞当時、野坂昭如は自らの体験に基づいて戦争と世代に関する新たな区分を提唱していた。従来の戦中派や戦後派というような世代区分を応用して自身を焼跡闇市派と規定していた。
焼跡闇市派とは昭和4.5.6年生まれの世代を指し、戦場に出ておらず疎開経験もないことを特徴にしていた。
野坂によれば「いわば、銃後市民生活の中核として戦争の末期を過ごした経験を持ち敗戦の日「連合艦隊はどうしたのかア」と絶叫し、占領軍の到来とともに昨日までの鬼畜米英が、この日から人類の見方にかわってちまっておったまげ、そして飢餓、恐怖症の覚えがあること。放出の兵隊服を着込んだことがあること、蚤、疥癬を知っていることになる。
軍隊体験や戦争体験を中心にして語られる傾向の戦争体験論に対し、銃後体験に注目を促した野坂の世代区分は、同時代において少なくないインパクトを有している。
野坂昭如の文体
2015年12月に、85歳で亡くなった作家の野坂昭如さんは、作家だけでなく、作詞家、放送作家、など文章に関わる仕事で広く活躍した人として知られています。さらに小説だけでなく、雑文と呼ばれるエッセイや、コラムのたぐいの文章を多く手がけることでも知られていました。さらに、対談なども積極的に行っており、まさに社交の人であったといえます。しかしトレードマークのサングラスは、実はシャイさを隠すためであったといわれています。それはお酒にしても同じことです。気が小さいため、それを大きく見せようとしてサングラスやお酒といったアイテムを身に着けていたのかもしれません。その野坂さんの人柄というべきものは文体にも現れています。
リズムの人
野坂昭如さんの、文体というべきものは、とにかく一文が長いということにつきます。その長い一文を句読点を次々と打っていくことで、展開させてゆきます。さらに、会話文も改行を入れることをせず、ずらずらとかきつらねていきます。そこで読者は、ひとつの流れが途切れることのないような感覚を得ることでしょう。野坂さんの文体というのは、いっけんとっつきにくい奇抜さがあるようでいて、実はかなりぐいぐいと読ませる文体となっているのです。こうした文体がなぜできあがったのかといえば、やはり放送作家や、コピーライターといったの仕事の中でつちかわれたものかもしれません。
遅筆早書きの人
野坂さんはとにかく筆が遅い人で知られていました。しかし、それは書きだすまでが長いということにつきます。一度、原稿を書き出せばかなり早いスピードであげたといわれています。それでもある時は、旅館に缶詰になって、編集者が待つ前で、わかるように原稿用紙をバリバリと音を立てていたけれども、実は何もできていなかったという笑い話もあるほどです。編集者を待たせて申し訳ないという気の小ささから来るエピソードなのかもしれません。
野坂昭如は文体の作家である。
丸谷才一は「八文字屋本」と比べた。その比較は正しいと私は思う。このたび、野坂の死に対して、その文体を称揚する言葉にあまり出会はないやうな気がしてならない。それが私などには納得がいかない。文体を軽んじてどこに文学者たる所以があるのかとすら言ひたいのだ
―悲惨なこと、悲しいことから、こんなにも美しく、人の心を打つ物語が生まれてくるんですね。『火垂るの墓』は、神様の顔がちらりと見えるような、そこまでの美しさを湛えた作品だと思います。
(NHK『私の1冊日本の100冊・感動のとまらない1冊』学研P15)
(山本藤光2017.09.05初稿、2018.02.27改稿)
傍若無人
野坂昭は1930年生まれで、2015年に逝去しています。多彩な人で肩書きを並べると、作家、作詞家、シャンソン歌手、落語家、漫才師、タレント、政治家などとなります。小説家としては、自ら「焼跡闇市派」と名乗りました。
「傍若無人」という語が、これほどふさわしい作家がまたとあろうか。過去の発言との一貫性を保っているように見せたがる世の知識人とは、野坂氏はまったくといってよいほど異質である。正直で、短気で、照れ屋。そんな野坂昭如への追悼の言葉では、佐藤愛子の次の一文が胸に響きました。
野坂さん、あなたは不思議な人でした。極めつきの我儘なのに、人にはわかりにくい繊細な優しさがあって、その優しさのために勝手に傷ついて、そして暴れん坊になる、といった厄介な人でした。野坂さん、これでらくになってよかったね。(『オール読物』2016年2月号)
小説 火垂るの墓 の創作意図を考える
小説では周知のとおり主人公の清太の母は米軍の神戸大空襲の際の火傷で、父は海軍で妹の節子は栄養失調で、本人も三ノ宮駅構内で衰弱してみんな死んでしまって終わる。
「火垂るの墓」は、野坂昭如が語っているように自伝的要素を織り込みながら創作された物語である。親戚の小母さんは小説で描写されているほど強欲でも意地悪でもなかった。逆にあれほど野坂は妹に健気に献身的でもなかった。防空壕で妹と暮らした事実はなかった。作品は創作とい構成に包括して、国民を不幸の奈落に突き落とす戦争の不条理をリアリティを持たせるために構築された小説である。だが、全くの嘘ではない。このような境遇におかれた兄妹は多かった。野坂には妹が二人いて上の妹は病没、さらには下の妹は一歳で西宮から福井に移って後に餓死した。このことは「僕は、作中の少年ほど妹に優しくなかったし、いかにも小説とは言え、周囲に大人達を随分と悪く書いている。」と書き残し野坂の心の負い目となっている。悔悛と妹たちへの鎮魂の意味を込めた魂の記録として野坂昭如はこの小説を創作したのである。
最後に野坂昭如のことば( 2015.08.16朝日新聞)を紹介します。
阪神間には、今も火垂るの墓の主人公の足跡を訪ねる人がいると云う。歩き続けて下さい。舞台は何も変わっていません。
2020年6月7日に満池谷に、「小説火垂るの墓 誕生の地」の記念碑が完成いたしました。
故野坂昭如氏の願いでもある「火垂るの墓」が書かれた戦争の時代に生きた子どもたちの魂の記録を理解するために文学周遊されることを推奨いたします。
野坂昭如 最後の手紙
明日は12月8日である。昭和16年のこの日、日本が真珠湾を攻撃した。8日の朝、米英と戦う宣戦布告の詔勅が出された。戦争が始まった日である。ハワイを攻撃することで、当時、日本の行き詰まりを打破せんとした結果、戦争に突っ走った。当面の安穏な生活が保障されるならばと身を合わせているうちに、近頃、かなり物騒な世の中となってきた。戦後の日本は平和国家だというが、たった1日で豹変し平和国家に生まれ変わったのだから、同じく、たった1日で、その平和とやらを守るという名目で、軍事国家、つまり、戦争をする事にだってなりかねない。気付いた時、二者択一など言ってられない。
明日にでも、たったひとつの選択しか許されない世の中になってしまうのではないか。昭和16年の12月8日を知る人が、ごくわずかになった今、また、ヒョイとあの時代に戻ってしまいそうな気がしてならない。
(出典 朝日新聞 2015年12月11日文化・文芸欄 12月7日にラジオ番組で放送された野坂昭如さんの最後の手紙)(火垂るの墓記念碑実行委員会)
水上 勉と播半 火垂の墓のこと
昭和42年(1967年) 直木賞第58回の審査では福井の生まれ。幅広い題材と、弱者に向けられた温かいまなざしで数多くの作品を執筆し、昭和を代表する人気作家水上勉氏は、 アメリカひじき、火垂の墓の2作品も出来がよく、野坂氏の怨念も夢もふんだんに詰めこまれて、しかも好短篇の結構を踏み、完全である。感動させられた。
と評価さている。
私は年末用事があって(甲山取材)で「播半」に二泊したが、仁川、御影(原文のまま)あたりの高級住宅地の空を眺めていて感慨をおぼえた。これからも西宮を訪れる日は蛍の舞う野坂文学の栄光が私によみがえるに相違ない。と記している
この播半は谷崎潤一郎『細雪』に「芝居は鴈治郎、料理は播半かつるや」として、その名が登場している。
薄給ながら自宅からも近く何度か昼と夜に宴会を楽しんだことがあり豪華な料理と和風建築の豪華な佇まいには感激させられました。庭は広くて美しくて、高台の部屋から眺望は阪神間が見渡せて、播半の部屋からの眺めは素晴らしい景観だった。
約1万坪の敷地に大師道側に「番人小屋」「表門」「東・西蔵」「本館」、谷川に「観合橋」、そして橋を挟んで東に「竹山亭」「新館」「舞台」「白雲居」「展望台」「千代の間」が点在していましました。
数寄屋建築と、渓谷美あふれる庭園で有名で客室はすべて違う意匠。浴室へ連絡する廊下の腰壁に埋め込まれた、魯山人の皿と素晴らしい建築物でしたが2006年廃業した。4.5年前に車で狭い大師道を通過したが当時の面影は全く見られず趣のないごく普通のマンションが見られただけで極めて残念な風景であった。
当時は、写真撮影もほとんど行わず茅渟の海と大阪市街と金剛山地と生駒山地の風景を愛でていたようです。その頃の播半のパンフレットがあり転載します。



野坂昭如と三島由紀夫
小説「火垂るの墓」は、14歳の少年清太と4歳の妹節子がともに力を合わせて懸命に生きようとした姿を描いた作品である。幼い兄妹の視線を思い二人が生きた時間を通して人間の最も愚かな戦争という行為で傷つき短い人生を終えた生き方を描き、国民を地獄の果てに突き落とす戦争の不条理さと愚行のもとで自らの力で生きようとした命の尊さを教えてくれる作品である。文中描写されている垂るの光は幼い兄妹の儚い命の輝きを表現している。この小説は、戦争文学でも反戦小説でもなく現代社会にも通じる普遍性のある物語であることから傑作としてアニメ映画化され、映画化もされ世界各国で上映されている。
この小説の背景には濃密な時代考証がなされ創作されている。幼い兄妹の視線を通じて愚かな戦争という行為で傷つき短い人生を終えた命を描き、国民を地獄の果てに突き落とす戦争の不条理さと愚行を戦中、戦後に見続けて考えて確固とした信念を持って描写した小説である。野坂昭如は85歳の死の当日まで、戦争の無意味さ、怖さ、そして見せかけだけの戦後日本の繁栄の危険性について語り続けた。野坂昭如は、政治的な立場を異にするが三島の行動力に心を打たれた一人だった。「このままいたら日本はなくなってしまう、かわりにからっぽで抜け目のないだけの経済大国が極東の一角に残るだけだ。」と昭和45年11月25日市ヶ谷の自衛隊市ヶ谷駐屯地バルコニーで演説し自決した。
三島由紀夫はノーベル文学賞候補になるなど、日本語の枠を超え、海外においても広く認められた作家であるが、日本の将来を危惧していた。野坂昭如と三島由紀夫の類似性として戦後の日本を考察することも同じだが、二人とも妹を亡くしたため原罪意識が常に引いている。三島由紀夫の妹平岡 美津子は、17歳で病死し、その死の痛手が青年時代の三島由紀夫の小説や戯曲には、妹をモデル、または投影させた作品が少なからず散見され執筆活動に大きな影響を与えたとされている。 野坂昭如は、妹が二人いて、上の妹は病没、さらに下の妹は一歳で西宮から福井に移って餓死している。このことは野坂の心の負い目しなった。「僕は作中の少年ほど妹に優しくなかったし如何にも小説とはいえ、周囲の大人たちをずいぶんと悪く書いているのだ。」と述べている。このことは野坂の心の負い目となっている。悔悛と妹たちへの鎮魂の意味を込めて野坂はこの小説を創作したのである。
二人から知的圧迫感、情の細やかさと全く申し分のない理想的な兄を感じさせてくれる。『日本とは何だ』戦後日本を憂い、日本のあるべき姿を追求し続けた文豪・三島由紀夫。ここではノーベル賞候補にもなった三島由紀夫は、一方で戦後日本の行く末に強い危機感を抱いていました。そして誰も語ろうとしないが三島由紀夫と野坂昭如が予測したとおりの日本社会の現状で生きる私達は二人の作品に触れ得られる思想は多いのではないか。と考えさせられている。
野坂 昭如 略歴
1930年 神奈川県鎌倉市生まれ
1945年 空襲で養父を失い上京、少年院にいるところを実父に引き取られる旧制新潟高校を経て早大文学部仏文科に入学7年間在籍するこの間、アルバイトでさまざまな職業を遍歴し、CMソング、コント、テレビ台本などを書く。
1963年 「おもちゃのチャチャチャ」レコード大賞作詞賞受賞。小説「エロ事師」発表
1967年 「火垂るの墓」「アメリカひじき」直木賞受賞戦後日本の繁栄を“焼け跡”を通して見つめ、社会の底辺にうごめく、しかし底抜けに明るい民衆を描き、焼跡闇市派といわれる。歌手としてデビュー
1972年 「面白半分」編集長として「四畳半襖の下張」裁判の被告最高裁で有罪判決
1974年 参院選挙東京地方区立候補、次点
1983年 参議院比例代表制選挙 当選
同12月 田中金権政治を批判し、新潟3区から参院選に立候補するが次点
1989年 アニメ「火垂るの墓」の印税などをもとに現代日本文学、絵画、音楽などを紹介する目的で「東西南北縦横斜めの会」発足現在、海外で上梓された小説11種
1996年 断酒。時にどしゃ飲み
1997年 「同心円」吉川英治賞受賞
1999年 戦争童話集―忘れてはイケナイ物語り 全12話映像化完成
2000年 「ザ・平成唱歌集・巻の一」「躁と鬱」「絶唱」「チンタマケの唄」「武道館の野坂昭如」 CD発売
2001年 禁煙。時にちょい喫み。
1月~ 野坂昭如コレクション全3巻 刊行(国書刊行会)
7月 戦争童話集沖縄篇「ウミガメと少年」刊行(講談社)
「忘れてはイケナイ物語り・オキナワ」映像化
2002年 1月 「ナマ麦ナマ米ナムマイダ」刊行(四谷ラウンド)
4月 「文壇」刊行(文藝春秋)
7月 「戦争童話集」全4冊絵本 刊行(NHK出版)
10月 「野坂昭如リターンズ」(国書刊行会)
「文壇」及びこれまでの文業に対し、泉鏡花賞を受賞
毎月第三水曜日、阿佐谷・新東京会館にて野坂塾を開催
伝え残したことを話していく。
