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​火垂るの墓 文学周遊

 焼け野原になった御影の町で 母との約束の待合せ場所である御影公会堂の裏手にある二本松へと向かった。
 14歳の少年清太と4歳の妹節子がともに力を合わせて懸命に生きようとした姿を描いた作品である。幼い兄妹の視線を思いを通じて人間のもつとも愚かな戦争という行為で傷つき短い人生を終えた生き方を描き、国民を地獄の果てに突き落とす戦争の不条理さと愚行のもとで自らの力で生きようとした命の尊さを教えてくれる。文中描写されている螢の光は幼い兄妹の儚い命の輝きを表現している。この小説は、戦争文学でも反戦小説でもなく現代社会にも通じる普遍性のある物語であることから傑作としてアニメ映画化され、映画化もされ世界各国で上映されている。
 この小説の背景には深い時代考証がなされ創作されている。作者のテーマを理解せずしてあれこれ無意味な批判的な書評を未だ散見するが、幼い兄妹の視線を通じて人間のもつとも愚かな戦争という行為で傷つき短い人生を終えた命を描き、国民を地獄の果てに突き落とす戦争の不条理さと愚行を描写した小説である。

 太平洋戦争末期の1945年神戸御影で空襲で生き延びた14歳だった昭如昭如は幼い妹とともに西宮市満地谷町の貯水池ニテコ池のそばにある親類宅や防空壕で過ごした。西宮市も5回の空襲を受け市街地の大部分が消失した。小説「火垂るの墓」は、野坂昭如さんの実体験を基に創作されている作品である。この作品は太平洋戦争が激化した2ヶ月前に米軍の大規模な空襲により被災し生き延びた幼い二人が不条理な状況下で懸命に生きるために現代社会にも通じる教訓が秘められた物語である。

 この作品は、特定の国を除いて海外でも評価されていように戦争文学ではなく普遍性のある人が生きるという行為をテーマとして物語としてまたアニメ映画に映画そしてテレビでも映像化されて現代も世界的に高く評価されている作品である。
 小説 火垂るの墓から清太と節子の生き様を描いた描写から作品の舞台となった場所を記録し 14歳の清太と4歳の妹節子が共に生きようと思ったゆかりの場所とともに表現した。

 火垂るの墓の序章は、省線三ノ宮駅構内浜側の化粧タイルが剥げ落ちたコンクリートむき出しの柱に背中をまるめてもたれかかる数多くの浮浪児の一人に、床に尻をつき両脚をまっすぐ投げ出して痩せこけた清太が住み着き、母の形見の長襦袢、半襟、腰紐を古着商に売り老婆の憐れみと食べ残しのパンをありがたくいただき半月ほど食いつないだが根が生え腰が抜けた。ひどい下痢が続き、駅の便所にもはいずる力もなく行くに困難となり果てた。

 次第にもはや飢えはなく、渇きもない、重たげに首を胸におとしこみ円柱をまるで母とたのむように持たれかかりすごしたいたが清太はその座ったままの姿でくの字なりに横倒しになったとは気づかず、何日かやろな何日やろかとそれのみ考えつつ清太は衰弱死した。清太は、他に二、三十はあった浮浪児の死体と共に、布引の上の寺で荼毘に付され、骨は無縁仏として納骨堂に葬られた。

      直木賞第58回受賞 昭和42年(1967年)下半期  選考概要

石坂洋次郎    「二作のうち、私は「火垂るの墓」がいいと思った。」「こう短くきれぎれに書かないで、この題材で長篇を書かれたら――と残念に思った。ともかく多才の人であり、底に手ごたえのあるものを感じさせる作家だ。」
源氏鶏太    「今回の二作については文句のつけようがなかった。」「私の感じからいうと今回の授賞は、はじめから野坂氏に決っていたような雰囲気であった。」
海音寺潮五郎    「大坂ことばの長所を利用しての冗舌は、縦横無尽のようでいながら、無駄なおしゃべりは少しもない。十分な計算がある。見事というほかはない。」「描写に少しもいやしさがなく、突飛な効果が笑いをさそう。感心した。」
川口松太郎    「直木賞作家の本命とはいい難く、君の技量は逆手だ。文章のアヤの面白さに興味があって事件人物の描写説得は二の次になっている。」「野坂君が独特の文躰の上に、豊かな内容をもり込む作家になってくれたらそれこそ鬼に金棒だ。」
水上勉    「出来がよく、野坂氏の怨念も夢もふんだんに詰めこまれて、しかも好短篇の結構を踏み、完全である。感動させられた。」
松本清張    「前回からの推薦者としては同慶に堪えない。私の好みとしては「アメリカひじき」よりも「火垂るの墓」をとりたい。だが、野坂氏独特の粘こい、しかも無駄のない饒舌体の文章は現在を捉えるときに最も特徴を発揮するように思う。」
大佛次郎    「この装飾の多い文体で、裸の現実を襞深くつつんで、むごたらしさや、いやらしいものから決して目を背向けていない。」「作りごとでない力が、底に横たわって手強い。この作家の将来が楽しみである。」
柴田錬三郎    「さまざまの話題をマスコミにまきちらし乍ら、とにもかくにも、文壇へふみ込んで来たその雑草的な強さは、敬服にあたいする。私は、「火垂るの墓」に感動した。」
今日出海    
「何も野坂、三好両氏の名前に授賞したのではなく、やはり作品の出来栄えを主体に銓考したのだから、新人は新人らしい精進を期待するのみである。」
中山義秀    「文芸作品はつねに時代を、最も敏感に反映する、とされているとおり、(引用者中略)異色ある文体に、シニカルな老練さを味わった。」
村上元三    「「火垂るの墓」よりも、「アメリカひじき」のほうがわたしには面白かった。はじめは取っつきにくく、気障なとまで思った文章も、こうなると芸のうちであろう。」

​               出展 公益財団法人日本文学振興会 文芸春秋

 

 満地谷のニテコ池、墓地、越水浄水場周辺は約1,000本の桜があり、大阪の造幣局に匹敵するほどの品種があり西宮の通抜けとして桜をめでる人に親しまれている。

 その昔、地名を一首のうちに三つも読み込み道行的な景観の広がりの中に妻と土地への清純な愛を淡々と表現した「吾が妹子に猪名野を見せつ名次山角の松原いつか示さむ」高市黒人が万葉集に残した景勝の地でもあった。今は感じの良い住宅地になっている。

   この地は、京の都から西摂平野を南西に横切ってきた山陽道は、西宮で大阪湾岸の交通路と合流する。合流点のすぐ北には甲山から南に、六甲山地東端の丘陵が伸びてくる。この丘陵には、戦国時代に越水城があった。夙川と御手洗川に東西を守られ、さらに西の内堀のような満池谷を持つこの城は、東を人工の堀で守られていた。西宮市の城ヶ堀という町名が城の縄張りを示している。

 ニテコ池や満池谷は越水城の内堀だった。近くの小学校に越水城跡の碑がたてられている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

越水城跡趾 大社小学校

 満地谷のニテコ池、墓地、越水浄水場周辺は約1,000本の桜があり、大阪の造幣局に匹敵するほどの品種があり西宮の通抜けとして桜をめでる人に親しまれている。

 その昔、地名を一首のうちに三つも読み込み道行的な景観の広がりの中に妻と土地への清純な愛を淡々と表現した「吾が妹子に猪名野を見せつ名次山角の松原いつか示さむ」高市黒人が万葉集に残した景勝の地でもあった。今は感じの良い住宅地になっている。

   この地は、京の都から西摂平野を南西に横切ってきた山陽道は、西宮で大阪湾岸の交通路と合流する。合流点のすぐ北には甲山から南に、六甲山地東端の丘陵が伸びてくる。この丘陵には、戦国時代に越水城があった。夙川と御手洗川に東西を守られ、さらに西の内堀のような満池谷を持つこの城は、東を人工の堀で守られていた。西宮市の城ヶ堀という町名が城の縄張りを示している。ニテコ池や満池谷は越水城の内堀だった。近くの小学校に越水城跡の碑がたてられていた。

作者が知っていたか分からないが、ニテコ池に接する東側にある小高い丘は城山の地名も『火垂るの墓』の舞台としてふさわしいように思えてならない。戦後 50年を迎える節目の年に阪神大震震災はこの地をも襲って池の堤防は一部崩壊した。

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名次の森 名次神社 創建 平安時代

​ニテコ池と名次神社

​三ノ宮驛構内

JR三ノ宮駅 2014 年撮影

​阪神電車の高架 御影駅・石屋川駅間

 1945年6月5日神戸はB29、350機の編隊による空襲を受け葺合、生田、灘、須磨および東神戸の五箇町村は焼き払われた。

 御影の自宅で待機していた。裏庭に掘った穴に火鉢を埋め台所の米、卵、鰹節、バター、干鰊などを納めて節子を母に変わって背負い母を防空壕に避難させた。自宅に戻ると焼夷弾が凄まじい落下音が響きわたっていた。

 焼夷弾とは、断面が六角形の鋼鉄製の筒(長さ約51センチ、直径約8センチ)にきわめて高温で燃えるゼリー状のガソリンを入れた布袋を詰め、前後2段、計38本を束ねた状態でB29爆撃機から投下。上空約700メートルで分解し、散らばった無数の子爆弾が屋根を貫通して、屋内にとどまって爆発させる爆弾である。

 清太は、一旦玄関に飛び込んたが家の中は黒煙が吹き出していた。とにかく母のいる防空壕へと歩き出すと、にわか雨のの如き落下音に軒端を走る火や炎では視界は暗くななり大気が熱せられ清太は怯えながら突き飛ばされるように母の「節子と一緒に逃げてと頂戴、お母ちゃんは自分一人なんとでもします、あんたら二人無事に生きてもらわなな、お父ちゃんに申しわけない、わかったね」

 と言った言葉を思い出しながら走り出し石屋川の堤防沿いの道に逃げる定めであったが避難するひとでごったがえしじれったくなり海へと向かった。その間にも火の粉が流れる、落下音にも包まれた。節子とともに灘五郷の酒蔵のある潮の香りが漂う海岸まで逃げ一度御影の浜辺に出て西方ま石屋川へ行き海辺のくぼみに身を隠し妹と耐えた。おおいはないが、とにかく穴に潜んでいれば心強く、腰を下ろすと激しい動悸、喉がかわき、ほとんどかえりみるゆとりもなかった節子を、おぶい紐から解いて抱きおろそうとすると、それだけのことで膝がガクガクとくずれそうそうになり、だが節子は泣きもせず、ちいさなかすりの防空頭巾かぶり白いシャツに頭巾と同じもんぺ赤いネルの足袋片方だけ黒塗りの大事にしていた下駄はいて、手に人形と母の古い大きな蟇口をしっかりと抱える。

​ きな臭いにおいと、風に乗ってすぐそこのように聞こえる火事の物音、はるか西の方に移って俄か雨の如き落下音、時に怯えながら兄弟体を寄せあい、思いついて防空袋から、昨夜、母がもう残していてもしかたないからと思い切って白米だけの飯を炊き、その残りのと今朝の大豆入りの玄米の、白黒半々まじった弁当ひろげればうっすらとすでに汗をかいていて、その白い部分を節子に食べさせる。見上げれば空はオレンジ色に染まり、かって母が、関東大震災の朝、雲が黄色くなったといったことを思い出す。

作品の舞台の頃の石屋川河口

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江戸時代の絵地図 酒蔵 御影郷

​現代の石屋川河口

阪神電車 石屋川駅 2014年撮影

御影公会堂 2014.10.30

        御影町立国民学校 現御影小学校 
明治6年御影小学校として発足。明治32年御影師範付属小学校。明治41年御影尋常小学校となる。
今は使用されていない南門は、御影町立国民学校時代の正門であった。

現代の御影小学校

御影国民小学校へ集合して下さい。上西、上中、一里塚の皆様。清太の住む町名を呼ばれる。​とあるが、この町名はいずれも存在しない。上中は、なんの変哲もない上中交差点として、一里塚は御影小学校の東を流れる橋の名称として残っている。

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御影本町 上中交差点 2019年撮影

  母と会えず国道で自転車の乗った警防団の男がメガフォンで何か怒鳴っている「御影国民学校へ集合してください。上西、上中、一里塚のみなさま」と清太の住む町名を呼ばれ母は学校に避難しているかもしれないと節子の世話をしながら六年間学んだ校舎へ行列を離れ医務室へ向かい町内会長の大林さに会い母のヒスイの指輪を見せられた。母は上半身をほうたいでくるみ、両手はバットの如く顔もぐるぐるまきに巻いて眼と鼻、口の部分だけが黒い穴が開けられ昏睡状態となった母と対面する。「お母ちゃん」低く呼んでみたが実感がわかず行程で待っている節子の事が気になり校庭にでた。

 「お母ちゃんはどこにいるの」と節子に聞かれ母の指輪を渡し母は西宮の病院にいる。今日はここで泊まり明日西宮のおばちゃん知っているやろ。池のそばの、あしこへ行こ」と語りかけた。

 「うちら二階の教室やねん、みんないてるからきいへん?」茶色い袋の乾パン二つ持った娘が戻ってきたが、後でいきますと、両親そろっている家族ら立ちまじれは、節子がかわいそうで、というより清太自身泣き出すかも知れず「食べるか」、「お母ちゃんとこいきたい」「あすならなもうおそいやろ」と節子の悲しい思いを清太自身の悲しみを隠して優しく受け止めた。

​一里塚橋 旧西国街道

母の遺体は、一王山下の広場で付されたとされた。都市化が進み小説にあるような広場は存在しないが、一王山十善寺は、臨済宗永源寺派の古寺で後冷泉天皇の天喜5年(1057年)に創建され73の七堂伽藍、僧房があったという。1333年の赤松一族の戦乱で焼失し荒廃した。その後、1665年(宝暦5年)に再建された古寺です。

一王山町

​国道2号線夙川橋

 野坂昭如が神戸で神戸の大空襲ではおよそ3,000トンもの焼夷弾が落とされたとされている。この空襲にあったのは、中学三年であった。神戸市立第一中学校に在学していた。6月5日に焼け出され、西宮市の満池谷にあった遠縁の家に身を寄せたのは3日後のことだった。大八車を借りて、御影の焼け跡から庭に埋めた食糧や酒、衣類などを掘り起こしそれを汗水みずくとなって引いていったが、夙川の堤防にたとせりついたとき、すでに日が暮れかたわらを流れる小川のせせらぎと、おびただしいほたるの群に生きているという実感がつよく迫った。と野坂昭如は回想している。

 現在はのどかな桜の名所としてしられ美しい景観で多くの人に親しまれている夙川は75年前には食料難のため堤防のあちこちに野菜が植えられていた。多くの人が米軍の空襲で傷つき逃げ惑う場所でもあったことをこの作品に登場している。

​阪急 夙川駅 当時は京阪神急行夙川駅

​ニテコ池

​パボーニ跡

​作品では、清太と節子が親戚の家を出て、この付近の防空壕で過ごした。と設定されている。

​清太と節子が住んだ満池谷町とニテコ池堤防  2014年10月14日撮影

火垂るの墓では

​ 小川に出て海へ向かうと一直線に走る走るアスファルトの所どころに馬が停まっていて疎開荷物を出している。神戸一中の帽子を被り眼鏡をかけ小肥りの男が難しそうな本を両手いっばい抱えて荷台に置き馬はただ物憂げに尻尾を跳ね返している。

右へ曲がると夙川の堤防に出て、その途中に「パボーニ」という店、サッカリンでの味をつけた寒天を売っているから買い食いし・・・・と登場している。

 ​野坂昭如は、パボーニが気に行っていたようで戦前も何度も訪れている。

 清太は、節子のひどい節子の汗もが気になり、たしか海水でふいたら直るはず、節子は子供心にどう納得したのかあまり母を口にしなくなり、ただ兄にすかりついて、「うんうれしいな」とこたえた。

 清太は節子をつれて夙川の堤防はすべて菜園になっていたて、南瓜や胡瓜の花が咲き、国道までは人影はほとんどなく、国道に沿う木立の中には、本土決戦のため温存の中級練習機が、申し訳ばかりの偽装網まとってひっそりとしている。

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西宮とはいっても山の際、空襲はまだ他人ごとのようだった。また気晴らしと治療にと「海行ってみよか」梅雨の晴れ間に、清太はひどい節子の汗もが気になり、たしか海水でふいたら直るはず、節子は子供心にどう納得したのかあまり母を口にしなくなり、ただもう兄にすがりついて、「うん、うれしいな」とこたえた。

そして回生病院の南の浜御前浜の海で遊んだ。「魚釣りでもして見ようか」ベラ、テンコチが確か釣れたはず、せめて海藻でもと探したが腐ったホンダワラの頼りなく波に揺れるのみ。 

小説にも登場する西宮回生病院  2014年10月19日

御前浜と西宮回生病院 2014年撮影院

海辺から警報がでたから戻りかけると、回生病院の入口でふいに「いや、お母さん」と若い女の声がひびき、みると信玄袋かついだ中年の女に看護婦が抱きついていて、田舎から母親が出てきたものらしい、清太はそのありさまぼんやりながめ、うらやましさと、看護婦の表情きれいなんやと半々にながめ、「待避」の声にふと海をみると、もはや目標を焼きつくしたのか、大規模な空襲はこのところ遠ざかっていた。機雷投下のB29が、大阪湾の沖を低空飛行していた。

西宮回生病院は明治40年の開業以来戦争や阪神大震災にも耐えて阪神地区の人々に親しまれてきた歴史ある病院です。

​アニメや映画で紹介された病院のドーム型の正面玄関を含めた旧病院の建物は、地域の皆様に惜しまれつつ2016年(平成28年)8月に新しい病院として産まれ変りました。

​西宮回生病院 建替前

​満池谷城山

節子の死

 神戸大空襲で母を失った清太は、次第に衰弱していく妹節子を連れて防空壕の中で暮らした。停電と灯火管制で慣れてい流とは言え、明かりの全くない防空壕の中、蚊帳に螢を放ってともしびとする。翌朝、死に落ちた螢の墓を作りながら兄弟は亡き母のことを思う。

 8月22日の昼、貯水池で泳いで壕へ戻ると節子は死んでいた。骨と皮に痩せ衰え、その前2.3日は声も立てず大きな蟻が顔にはいのぼっても払いおとすみともせず、ただ夜の蛍の光を眼でおうらしく「上にいった、下にいったあ、あとまった」とつぶやいていた。

​ 夜になると嵐、清太は暗闇にうずくまり節子の亡骸を膝にのせてうとうとと眠ってもすぐ目覚めて、その髪の毛をなでつづけすでに冷え切った顔に自分の頬をおしつけ涙はでぬ。ゴウと吠え、木の葉激しく揺りうごかし荒れ狂う嵐の中に荒れ狂う嵐の中にふと節子の鳴き声が聞こえるように思う。

 翌日台風過ぎてにわかに秋の色深めた空の一角雲なき日差しを浴び清太は節子ーを抱いて山に登る​。市役所へ頼むと火葬場は満員で一週間前のがまだ始末できん。と言われ木炭一俵の特配だけを受けた。「子供さんやったらお寺の隅など借りて焼かしてもらい。大豆の殻で火イつけるとうまいこと燃えるわ」なれているらしく配給所の男おしえてくれた。

​ 満池谷見下ろす丘に穴をほり、行李に節子をおさめて、人形、蟇口、下着一切をまわりにつめいわれた通り大豆の殻からを敷き枯木を並べ木炭をぶちまけた上に行李をのせ硫黄のた付け木にひをうつし放り込むと大豆殻パチパチとはぜつつ燃え上がり煙たゆとうとみるうち一筋ひとすじいきおいよく空に向かい、清太便意をもよおしその焔ながめつつしゃがむ、清太にも慢性の下痢が遅いかかっていた。

 暮れるにしたがって風のたびに低くうなりながら木炭は赤い色をゆらめかせ、夕空には星、そして見下ろせば2日前から灯火管制のとけた谷あいの街並みちらほらなつかしい明かりが見えて四年前父の従弟の結婚について候補者の身もと調べるためこのあたりを母と歩き遠くあの未亡人の家をながめた記憶といささかもかわるところはない。

 夜更けに火が燃えつき骨を拾うにもくらがりで見当つかず、そのまま穴のかたわらに横たわり周囲はおびただしい蛍のむれ。だが清太は手にとることもせず、これやったら節子さびしないやろ、蛍がついているもんなあ、上がったり下がったりついと横へ走ったり、もうじき蛍もおらんようにになるけど蛍とし一緒に天国へ行き。

 晩に目覚め、白い骨それはローセキのかけらの如く細かくくだけいたが集めて山を降りその壕にはもどらなかった。

​ 清太も節子も餓死したが、太平洋戦争では厚生労働省や総務省の資料によると戦没者230万人は戦死も戦病死である。その60%の140万人が戦病死でほとんどが餓死者だと推定され兵站に無知でしかも軽視した机上の軍部役人の戦争に対する貧素な思考行動形態の結果と記載されている。 

 「火垂るの墓」は、アニメ映画にもなり、絵本も出版されている。数年前テレビドラマにもなり、映画も作られた。しかしなが最近は特定の主義・主張の評論等によりテレビ等では放映できない。との規制があるようだ。事実を隠蔽し第二次世界大戦の歴史から隔離したいからとのことのようだ。しかしこのような施策や低俗なテレビコメンテーターの発言でネットでも映画もアニメも小説も閲覧できるネット社会で、滅亡し破綻した国家の歴史が教えるような報道規制や過去の歴史では王朝が変わるごとに焚書により記録から抹殺する高圧的な古くさい対策で歴史観を変えることが可能なだと信じているのだろうか。

 戦後70年、戦争を知らない子供達に世代に語っても全て無駄なのだろうかか・・・・・・だが語り継がねばならない。

 この作品において戦争は極めて控えめに扱われている。米国では絶賛されている小説ではあるが米国という戦争の一方の当事者である立場から慎重にその言及を避けたのかもしれないが戦争の悲劇の描写やその記録ではなく、戦時において力の無い幼い二人がどのように生きたのかという部分にあると感じ人間として歴史を的確に表示している作品で、決してこの書を読むことなく反戦だとか厭戦だと論ずるのではなく、受けざるを得なかった逆境に力を尽くして幼い二人が懸命に生きる姿を豊かな感情に訴えった作品であると判断できるものだ。

 文学作品では普遍的にいつの時代においても受け入れられる作品が名作だとされているこの小説『火垂るの墓』それを体現した作品であると知るべきである。

​満池谷町風景

 戦闘機 飛燕

戦後の思い出
 敗戦の日、戦争に負けた。昼に重大放送がある。と大人はほっとしたように語り爆弾は焼夷弾ももう落ちてこない。と話してするのを聴き今晩から安心して寝られるのかな。と思ったその時筆者は5歳だった。当時の戦争体験を述べて見ますと、
 敗戦当時、明石城から西の飛鳥・奈良時代からの西国街道沿いの和坂(かにがさか。と読む)という明石郡林崎村で住んでいたのですが、現在の明石・西明石駅間に川崎重工業があり零戦等の航空機製造工場があり、戦争末期昼夜を問わずB29の爆撃機が飛来してから空襲警報が鳴り響いていた。すでに爆撃機は頭上を飛んでいたが、防空壕、穴を掘り上に木材で屋根組を作り板切れや枯れ木で覆いそこに隠れるようにと指示された。山陽本線のそばでもあり流れ爆弾が住んでいた家から少し離れたそばに落下したが家屋も爆風で破損したが直撃されなかったため生きながらえたようだ。落下した後には直径30㍍ほどの穴が空いていた。近くには直撃され跡形もなくなった家屋もあった。













永井荷風も当時、戦争から逃れて明石に住んでいたが、米軍の激しい住宅地への空爆で市内が焼け野原となった描写が日記に克明に記載されているが、夜空を焦がす激しい火炎を見て怯え強烈だったことが記憶として残っている。なにがしかの配給はあったから生き伸びたことは確かではあるが、日々空腹で食べるものもなく水や雑穀で増量し過ごしていたことも・・・・・・・特定の政治家や軍人その取り巻く権力者や資産家は別として殆どの人は苦しい生活を強いられていました。
 神戸御影や西宮のニテコ池の防空壕で米軍の空爆で住宅地が焼け野原になった一つの要因は、現在世界で最も優れたUSー2という飛行艇を新明和工業が製作している。前身は川西航空機で当時、二式飛行艇や紫電改等の海軍の航空機を神戸深江、西宮鳴尾に工場があり付近一帯の住宅地とともに壊滅させるために戦争末期には、清太が述べているようにB29が、大阪湾の沖を低空飛行していて、もはや目標を焼きつくしたのか、大規模な空襲はこのところ遠ざかっていた。つまり阪神間は焼土化していたのだった。
敗戦後の翌年、小学校に入学した。校舎は川崎重工明石工場の飛行場の跡地にあった建物を利用したもので、教科書はサクラサイタ等の真っ黒に墨塗された粗末なものだったことを記憶しています。学校近くの飛行場跡には当時川崎重工が製作していた壊された飛燕という戦闘機があちこちに放置されていた。何も知らない私たちは格好の遊び場で翼から操縦席に乗り込んで遊んだ記憶が鮮明です。以外と小さい飛行機だとの印象があった。で調べるとその画像があり転載しています。












 

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  当時の辛い思い出を自宅近くの鷹尾山という標高260㍍の山があり時折散歩に行くのですが、その景観のよいピークに数年前83歳前後の方が、中学校に通っていたが勤労動員ということでここまで電柱を2本ほど大勢で担ぎ上げて緑色に塗って大阪湾に向け高射砲に偽装するための物を運ぶためにそして土木工事に従事した。見張りの鉄塔も建てられていた。この裏の崖に塹壕を掘り建てて過ごした。昔の山城跡だせと語られているようだが。と教えられた。
いくら子どもでも電柱に色を塗り空に向けただけで戦争に勝てるのかと信じられない思いだったのですが、とうてい言えるわけはなくましてこの工事は軍事機密だと箝口令を厳命された。 ベンチに座り眼下の風景をみつつあそこに見える深江の新明和工業はすでに破壊されていたのでしょうか。と聞くと軍関係の工場については一切知らなかったとのことでした。
 しかしここまでの登山道は私たちが戦争末期に造成したのです。それが、戦後60年経過して役にたっているのですね。と教えてもらったことがあった。太平洋戦争の遺物が山歩きの道路として残っているのだと気付かされた。さらにこの付近に低い鉄塔も建てたのですがなくなったようです。とも聞かされ画像もあると聞き探しています。

 その方は、14歳で宝塚にあった航空隊に入隊させられて訓練だと称して日々なんだかんだと14歳の私には理解しがたい言動で殴られ続けた経験をした。と語られていた。そして敗戦の数日前の朝、起床すると上官達は航空隊から消え去り誰もいなくなった。
さらには豊富な食べ物も持ち去られたのかすっからかんにな日がなひもじさに耐えて息も絶え絶えに過ごしたが、私達もここにいても無駄だと考え近くだった芦屋の自宅へと戻った。と語っておられた。

神戸大空襲の状況

 

 神戸市域に対する無差別焼夷弾爆撃が、3月17日未明の大空襲により、兵庫区、林田区、葺合区を中心とする神戸市の西半分が壊滅した。また、5月11日の空襲では、東灘区(当時は住吉村)にあった航空機工場が目標とされ、爆弾による精密爆撃が行われた。この空襲では、灘区・東灘区が被害を受けた。さらに、6月5日の空襲では、西は垂水区から東は芦屋・西宮までの広範囲に爆撃され、それまでの空襲で残っていた神戸市の東半分が焦土と化し神戸市域は壊滅した。

 神戸空襲による現在の神戸市域の被害は罹災者総数53万858人、死者7,491人、重軽傷者1万7,002人、被災戸数14万1,983戸となっているが、この数字は確定したものでなく、実際はこれを上回る膨大な損失であった。また、神戸市の人口千人当たりの戦争被害率は47.4人であり、五大都市(東京・大阪・名古屋・横浜・神戸)で最高を示したのである。

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焼夷弾爆撃で焼損した生田神社境内の楠の古木

JR三ノ宮駅架道橋橋桁の銃痕跡

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​阪急神戸三宮駅構内の焼夷弾と機銃銃痕跡

​神戸営林署森林気象観測

 この城山の東に剱谷という標高580㍍の山があり山麓は大坂城築城石の発掘地として有名な場所でもある。また阪神間や大阪湾眺望が素晴しい。山頂近くの立合峠に565・5㍍の三角点が有り通称ごろごろ岳とも言われ私は何度も歩いているのですが。
  この近くに昭和10年3月に神戸営林署森林気象観測所が設置され17㍍の望楼が設備され係員が常駐し気象観測と山火事看視が実施されるようになった。観測業務を行った池野良之助氏の記録には、「火垂るの墓」にも登場する記録がある。20年6月5日阪神大空襲があり「呪われたる五日、午前5時40分、深い眠りは警戒警報の不気味なサイレンで呼び起こされた。・・・・・・神戸上空を見ると、もの凄い黒煙が大空を覆い、空は夕暮れの如き奇観を呈し、まるで夜が段々とせまってくるかと思われるように全く薄暗くなった。まるで往年の日食のようであった。」と記載されている。山頂から炎上する山麓の町々を怒りを持って見てまた、自らも観測塔の上空を飛び交う艦載機からの機銃掃射も受けた。不思議なことに苦楽園、お多福山付近にも焼夷弾が落下し突き刺さると発火したが山火事にはならなかった。とも記されている。この付近は、現在こそ山頂近くまで山の別荘はあるが当時は奥池と自然林でしかなかったが戦闘機が空爆した。これが戦争という行為だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

私も経験したが幼い頃食べ物を探して田んぼの畔道を歩いていて機銃掃射を受けたこともある。幼い子供大宇あっても 攻撃の対象となっていたとの思い出も語る方が存在するように戦時は対象は何でもよいのだろう。人を銃弾で殺せば・・・・・
 戦後4年経過し尼崎市に引越したが、元町駅や三ノ宮駅を経由し明石に行く機会が多くありまたが、清太のように駅のコンコースや地下道の階段に当時浮浪児と言われた子供たちがたむろし生活している姿を何度も見たことがある。そして傷痍軍人と言われた足や手を戦争で失った人々が・・・・そしてそばを歩く私たちにも満足な食事もなくひもじい生活を強いられていた。幸い生き伸びることが出来た私もひょっとするとこのような高架下の空き地で一人で生きねばならないこともありえたのだ。と幼心に思いがはしった。
 現在の日本においてもこのような悲惨な生き方をさせられている人は多いが残念ながら真摯に現実を見つめ生きた人の営みを描く作品が生まれる土壌が失われているという懸念をしているのだが・・・・・。ちなみに日本が独立したのは1952年昭和27年4月28日である。この頃は米軍の占領下でもあり進駐軍の軍用車両が走るとその兵士達にタバコだろうか物乞いをしている姿をよく見たものだ。
 「火垂るの墓」のアニメは世界各国では絶賛されているとのことだが、国内では何故か最近テレビでは放映されない。というより事実に基づいた時代背景の映画等の放映は厳しく検閲?され排除され規制されているとの記事も見られる。
 さらには現代社会では、ごますり集団の企業や官僚のように国会議員であっても歴史や現実を直視することなくSNSのような単純な見栄えだけが大事な会話がはこびりそれに同調しなければ阻害される。のけ者にされる。いじめに遭う。パワハラされさらにはセクハラという異常な思考形態で幼稚化し均一化させ横並びにさせる時代の流れの世代では、自らの思考範囲を越える歴史に基づき事実に背を向けて受け入れられないのが実態のように思われる。
 21世紀の現在世界には飢えで苦しんでいる人たちはたくさんいる。現代日本は食物の約40%のみ自給出来ない。世界的な不作などが起これば、一瞬にして日本は飢える。そして、日本では約五千万人が餓死するといわれている。今、スーパーや食料品屋にたくさんの食糧があふれ、次から次へと平気で食糧を捨てる。そんな光景を心ある人はこのままではいかない、と嘆いている。私も恐ろしくてならない  
 当時の国家の置かれた政治経済や生産状況も知ることなく現在の食料事情で判断する理解しがたい発言が多くある。この発言等や評価は1789年のフランス革命前夜ルイ16世の后マリーアントワネットが庶民が食料不足に苦しんでいた時代「パンがなければお菓子を食べればいいのですよ」と后を悪人に仕上げるためにねつ造した200年も前の狂言と同じ言動となる。
  敗戦当時の日本国土の人口は約7200万人であり、旧厚生省等の日本政府の資料では戦争が6か月長引けば国民の三分の一以上の国民が餓死すると推定されていた。
 敗戦時は凶作が二、三年続き輸入食料品は海上封鎖で確保できなくなり途絶え自給率は最悪だった。食料もさることながら鉄鉱石の87%、石油は75%は輸入せざるを得なく、石油、鉄屑そしてアルミ等の戦略物資、航空機用燃料等の80%は米国からの輸入に頼っていた。そのため松ヤニを航空機の燃料にするということで全国的に採取された。国家の命令で有り私も意味も分からす手伝った記憶があったが松根油では飛行機は飛ばす生産も少量で藁にもすがる思いの時代であったのだろう。縄文時代からの歴史で戦前の技術水準や頭脳がいかに優秀であっても食料も原材料も手に入らなければそして智慧もなければ無駄な事に手を染めてしまうのだろう。
 戦後、米軍からの支給とのことで濃緑色の軍用食料品の缶入りのチーズ、クラッカーそしてコンビーフ、粉末の不味いミルクなどの配給日を回覧簿で回り数時間並んで受け取ることができた。この配給品は長く米国からと聞かされていたが全くの嘘偽りで実態は米軍とかではなくララ物資という民間団体が米軍の廃棄用の物資それも高価で買い上げての支援だと最近知った。
 つまり騙されていたわけである。
 しかし大型の缶入りチーズ等当時の日本人は好みでなかったのかいくらでも受け取ることが出来たためできるだけ受け取り空腹を満たした惨めな時代を過ごしたのだった。事実かどうか「2・30歳の男女に戦争で食べ物がなくなればどうするか?」とインタビューすると
「コンビニで買えばいいじゃーん。」とあっけらんかんだと報じられているほど思考能力はまったく失せている。
 日本においても少子高齢化そしてワーキングプアーそして格差社会の拡大等によりマスメディア報道するようなきれい事の社会ではなく実態は厳しい国家情勢となっている。真面目な番組で、大阪のある地区でNPO団体(宗教団体)のコンテナーハウスで、期限切れを迎え数日後には発売できなくなる食料品の寄贈を受け付近の貧困家庭の子供たちの食事を提供している。との映像があった。幼い子供たちは嬉々として美味しそうに食べている光景を見て戦後の空腹に耐えて過ごした時間を思い出した。いまだ一杯の掛けそばで現実の日々を過ごす親子がいるのかと日本がこれほどまでに貧しいのかと強い悲しみがこみ上げてきた。
 このような支援の動きが全国的に広がっているようだ。だが行政機関等諮問会議等は紙の上で設定はするが具体的な支援対策や現状把握はなせず机上の空論の積み重なりで無関心でその実施はみとめられないとのことだ。
 戦後75年経過した平成25年現代でも18歳未満の子供の家庭では困窮のために十分に食事が与えられない子供、食事の経済的負担となり1日300円以内で生活する貧困家庭は16,3%と明らかにされている。つまり子供5人に1人は食事が事欠きひもじい生活をしている時代となる。
そして驚くべきことに新聞もテレビも報道はされないというより触れないで臭いものに蓋だと避けているようだ。
​ 関係各省は上から目線で規制しているのか、前近代的な単純な単年度予算主義思考で智慧も不足し無知なのか・・・・・それとも戦前のように、暗黒の中世の独裁国家のように隠蔽し美化させているのだろうか・・・・・・
 また21世紀の先進国だとうぬぼれ続ける日本にも餓死する人は毎年相当存在するという事実があるとのことです。さらに一人親世帯の貧困度は、恐ろしいことにOECD の加盟国では米国とともに一番最悪の国となっていることも心ある人には良く知られていることですが・・・・・・。
 戦後75年が過ぎさった。だがこのよう現実が存在しているのが日本社会の悲しい現状だと「火垂るの墓」から考えさせられた。

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