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​火垂るの墓誕生の地記念碑除幕式とアンネのバラ

アンネのバラのこと

 小説火垂るの墓誕生の地記念碑のそばにアンネのバラが植樹されています。このアンネのバラには戦争に関わる悲しい物語が歴史に残されています。

 代表土屋純男氏は、アンネ・フランクの願いを受け止め西宮の地に、アンネのバラの教会の解説では、アンネ・フランクはドイツ生まれのユダヤ人の少女です。ヒトラーによるユダヤ人迫害にあい、ドイツからオランダに移りました。その後、アムステルダムの隠れ家で2年を過ごしました。そのとき書かれたのが『アンネの日記』です。アンネは、ドイツ軍にとらえられ、強制収容所で15歳と9ヶ月の生涯を終えましたが、『アンネの日記』を残しています。おとなになるまでにだれもが一度は読んでみるすばらしい日記です。

 アンネ・フランクは、日記の中に、「私は世界と人類のために働きます」と、書き残しました。 

 アンネのバラの教会は、彼女の平和と人類愛の理想が、多くの若い人たちに、受けつがれていくようにとの願いをこめてアンネ生誕50周年の1979年計画され、1980年4月に建てられました。アンネの父オットー・フランク氏との交流が、この教会設立のきっかけとなりました。 

 アンネのバラの教会の「アンネの庭」一面に咲く黄金色のバラは、アンネを偲んでベルギーで作出された四季咲きの香り高いバラです。「アンネの形見のバラ」(Souvenir d'Anne Frank 1960  Delforge)と呼ばれ、フランク氏の庭でも大切に育てられていました。1972年のクリスマスにフランク氏より友情のしるしとして聖イエス会に贈られて来ました。

戦争で最もひどい目に遭うのはいつも子供たちだ。戦争をしたのは大人の責任であり、今度戦争をしたら私たち大人の責任だ。

 戦争で多くの命を失った、飢えに泣いた。戦争は人間を人間でなくす。戦争をしてはならない、戦争は悲しみだけを残す。と野坂昭如の最後のメッセージに込められた願いを後世に残すために火垂るの墓委員会土屋純男氏はアンネ・フランクの訴えに感動し「アンネのバラ」を「火垂るの墓誕生の地記念碑」のそばに植樹し幼くして獄死したアンネ・フランクの、「私は世界と人類のために働きます」と、日記に書き残した思いを伝えることとしています。

 

アンネのバラの教会

URL  https://ja-jp.facebook.com/annesrosechurch/

 

アンネのバラの教会

兵庫県西宮市甲陽園西山町4-7

見学は予約制です。WEBサイト・電話等でご確認下さい。

℡ 0798-74-5911

Webサイト church◎annesrose.com  

アンネ・フランクの短い生涯  最後の七ヶ月

 

 ドイツの総力戦体制が強まり、ユダヤ人狩りが頻繁に行われはじめると、「ユダヤ人はポーランドへ連行されそこで虐殺される」という不穏な噂が流れるようになった。ドイツ側は、連行しているユダヤ人は失業中で未婚のユダヤ人のみであり、彼らはドイツ国内の労働収容所へ送っており、そこで公正な取り扱いのもとに強制労働に従事しているとしていた。しかしイギリスのBBC放送などはユダヤ人はポーランドへ連れて行かれ、そこで虐殺されていると報道していた

 1942年7月危険が迫ってきていると判断したオットーとヘルマン・ファン・ペルスは、建物の中に隠れ家を設置して身を隠す準備を進めた。その建物はアムステルダム・ヨルダーン地区プリンセンフラハト通り263番地にあった。4階建ての建物で1階が倉庫、2階が事務所、3階と4階さらにその上に屋根裏部屋もありも倉庫として使われていた。この建物の後ろには離れ家がついており、そこの2階にはオットーのオフィスと従業員用のキッチンがあり、3階と4階は放置されていた。こうした離れ家は、運河に面したアムステルダムの建物にはよくある形状でこの離れ家の3階と4階と屋根裏部屋を改築して隠れ家が作られた。

彼女は戦争を憎みました。1944年5月3日の日記の中で、こう書いています。「戦争が何の役に立つのでしょう? なぜ人間は仲よく、平和に暮せないのでしょう?

私は世界中の人々が平和を切望しでいると思います。けれども、まわりを見ると、多くの国できょうも戦いが続いています。その理由の中に、盲目的愛国主義があり、権力への野心があり、宗教的な狂信があります。欠けているものは自分の隣り人への愛であります。愛――これこそは皆様の本質の一つであり、又私の宗教でも同様です。

私たちのまわりに何が起ころうとも、希望を捨ててはなりません。偏見と差別を取り除き、平和と理解に向って働き続けなければなりません。私たちが使命を達成するために、「主」が力を与えて下さるようお祈りをいたしましょう。

と書き残しています。

 その日記を書き残した3ヶ月後の1944年8月8日 隠れ家生活を送っていたアンネ・フランクの一家が、ナチス親衛隊に逮捕された。アンネ・フランクと隠れ家のユダヤ人8人はアムステルダム中央駅からオランダ北東のヴェステルボルク通過収容所へ移送された。彼らは有罪判決を受けた犯罪者のように,刑務所のバラックに入り, 男女は離れ離れになった。アン, マーゴットとその母親のエディスは古いバッテリーを再利用のために取り分けなければならなかった。汚れて不健康な仕事をウェスタンボークで働かされがわずか数週間の後, アンと他の人は列車に乗せられ東に連行されて行った. 

1944年9月3日アウシュヴィッツ、ビルケナウ強制収容所に向かうウェスタンボークを出発する最後の列車で1,011人のユダヤ人と共に, 閉鎖された貨物車に押し込められた。

オランダ・アムステルダム(Amsterdam)にある博物館「アンネ・フランクの家(Anne Frank House)」は、2015年4月「新たに実施した調査の結果、アンネと姉のマルゴット(Margot Frank)は1945年2月に死亡したとみられる」と明らかにされている。

     戦争童話集 野坂昭如著  

広島県立第一高等女学校1年6組

森脇 瑤子の日記

 

1945年8月5日(日)晴

学校 家庭修練日

家庭 起床6時 就床21時 学習時間1時間30分  

手伝い 食事の支度

今日は、家庭修練日である

 昨日叔父が来たので家が大変にぎやかであった。「いつもこんなだったらいいなあ」と思う。明日からは家庭疎開の整理だ。一生懸命がんばろうと思う。

広島県立第一高等女学校1年6組森脇瑤子さんの日記最終章である。

 高等女学校1年は今の中学1年に当る。その一学期を終え本来なら夏休みに入った翌6日家庭疎開の整理作業中、現在「核弾頭」とあっさり表され、ミサイルとセットになって記号化され、そのもたらす惨禍について想像力の働かない原子爆弾、アメリカ側のニックネームでは「リトルボーイ」によって殺された。

 作業に従事していた数で言えば14歳の少女二百数十名、八割が即死、残りの生徒も7日朝までに亡くなった。

 森脇 瑤子さんは6日こわされて影ひとつない家庭疎開跡を片付けていたが1キロ先の上空で原爆が炸裂した。多分酷い姿に変わり果てた瑤子さんは10キロ離れた学校の理科室に正午近く収容され、夜死亡くなった。

 当時で言う国民学校低学年以下は事態が判なかったろう。大人たちはまったくの思考停止、あの年の夏、日本全土で天皇陛下のために、お国のために「頑張って」いたのは森脇瑤子さんの世代だけだ。

 瑤子さんのように何の罪もない少女の明日を、ひたむきに生きようとする思いを戦争は無残に断ち切る。

 戦争を起こしたのは大人だ。大人の償い得ぬ罪と受けとめて当然、しかし今この自覚はない。毎年8月15日、先の戦争について反省を見せる。まさに形だけ・・・・・・。伝えなかった、僕の世代がいけない。瑤子さんにならっていえば、伝えるべく「頑張ろう」と思っている。

 

出典 野坂 昭如 新編「終戦日記」を読む 中央公論社

 

 

野坂昭如著 戦争童話集

年老いた雌狼と女の子の話

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 昭和20年8月15日満州の片隅に住む年老いた狼は餌を得ることができず自殺しようとしていたが、そこに現れたのは女性や子供が中心の日本人一行チャンスとばかり後をつけた狼はやがて母親とはぐれたキクちゃんという4歳の女の子と出会ったのです。

 女の子は、白いシャツにもんぺをはき手にバスケットをしっかりかかえこんでいました。彼女は自分を犬と勘違いし、お菓子をくれたり甘えてきたりとなついてしまった様子、すっかり襲う気が失せた狼はやがて病魔に冒されていることを知る。そして症状が悪化していくキクちゃんを見て彼女を助けようと決意する。

狼と女の子は、2日間身をかくしたのです。この地は、地ひびき立てて幾台もの戦車が南に向かい時には銃声も聞えていたからです。

ずっと以前、人間の鉄砲に追い立てられたことのある狼は、その硝煙の匂いを忘れませんでした。

 この狼は自分の死期が近づいていることをよく心得ていました。死を覚悟していてもお腹はすきます。狼は喉が乾いていて小さな川で水を飲み野ねずみをつかまえて腹の足しとして走りはじめたとき、近くの草むらにふと赤い色がうごめき泣き声が聞こえた。狼は、まさか人間の子供と思わず用心しながら近づくと小さな女の子が歩いていたのです。

女の子は、狼を見て少しも怖がらず「ベル」と呼んで本当にうれしそうによりついて来たので狼はとまどってしまいました。女の子は泣きじゃくりながら

「お母さんはどこへ行っちゃった。ねぇベル探してきてよ。」

首や背中をなでつつかたりかけた。その言葉はわかりませんがどうも自分を友達と思っているらしい。狼を怖がらない人間なんて不思議だなぁと思いつつ狼は女のなすままにさせていました。

 女の子に狼のもっともいやな皮の匂いや硝煙の匂いがなくそのかわりにおっぱいの匂いがしみついていました。女の子は、すっかり狼にたよりきって時には「お母さん」と大きな声で呼びますが応えるものは、ただ広い平原をわたる風の音ばかりだった。  

 狼が水を飲むと真似をして自分も四つん這いになりおいしそうに喉をならし。お腹が減ると女の子はバスケットの中から乾パンを取り出してボリボリかじり、まじっていた金平糖を狼にくれます。

 「ねぇベル」お母さんはどこへ行ったのかしら」女の子にたずねられ、狼は首をかしげました。女の子は名前をキクちゃんといいました。

 キクちゃんは、もっと北にある大きな都会で生まれ何不自由なく暮らしていました。しかし8月6日ソ連軍がキクちゃんの住んでいた町に攻めこんで来ました。関東軍という軍隊は名ばかりでキクちゃんのお父さんのような老兵ばかり迎え撃つための大砲も戦車もなく、たちまちソ連軍に追い立てられ日本人は南まで行けばなんとかなるだろうと逃げ出しました。他に方法はなかったのです。

 軍人やその家族たちはソ連軍の侵攻前に貨物列車を仕立てて逃げ出しました。キクちゃんたちは着のみ着のまま持てる限りの食料を身につけお母さんと貨物列車を待ち続けました。

 ようやく乗車した貨物列車は、ある駅に入ると兵隊が「降りろこの先はもう通れないぞ」と叫びまわった。みんな仕方なく外へ。

「特急亜細亜号」が時速120kmで走った路線でありとにかくこの線路伝いに南へ向かえば朝鮮半島へ着くだろう。それだけがたよりだった。

 

 

兵隊がいないと知ると匪賊が狙いをつけます。水一杯をもらうのに金銭を要求をされるなど想像以上の苦しさが見込まれました。昼間は、民間人と云えども敵に襲撃されます。御飯も夜にこっそり炊くしかありません。そして歩けるうちは一緒に行動しますが倒れてしまうと、病気になると誰も助けるゆとりはなかった。

 キクちゃんは運の悪いことに麻疹を発病したのです。お母さんは背中におぶって歩き続けましたがひどくなるばかりでした。発病を知ったリーダーの老人から別行動をとるかキクちゃんを捨てて行くようにと通告された。

 お母さんは、涙のありったけをしぼったあげくキクちゃんを一人捨てて行くことにしました。他に方法はありません。熱にうなされたキクちゃんにせめておっぱいをふくませ、バスケットにありったけの乾パンをつめ集団が一時停止したのを見はからいねむりこけたキクちゃんを草むらに置いてきたのです。

 キクちゃんは目が覚めたとき、一人ぽっちになっていたからびつくりしましたが捨ててきたはずのベルがすぐそばできょとんとながめているので少し安心しベルと一緒にいればお家に帰れると思いました。

 狼は、夜キクちゃんを抱いて寝てやり昼間はその背中につかませてとことこ北に向けて歩きました。あまりキクちゃんが自分をするのでほっておけなくなったのです。

 狼は、よろめく足をふみしめて歩き続け、南下するソ連軍に抵抗する義勇軍の戦闘にぶつかってしまった。ようやく静かになり8月15日の空は満州でも雲ひつとなく晴れ上がっていました。もう一つ山を越えると狼の住んでいた谷間でした。死ぬつもりで出かけたのに妙なことになってしまったと考えた。

 やがてキクちゃんは熱がひどくなってもう狼の背中に捕まっていられなくなりました。ぐったりしたキクちゃんの着ているモンペを狼はかけた歯で懸命にくわえる。引きずらないようによろめきつつ北へ向かいました。山のふもとについたとき、人間に発見され「おい狼が子供をさらっていくぞ」と追われ鉄砲で射たれたが狼は自分の体でキクちゃんをかばいつつ息きだえました。

 かけつけた人は、キクちゃんの冷たくなった体に噛み傷一つもないことに不思議になったがキクちゃんを埋葬しました。狼はその場にさらされたままでしたが骨になってもキクちゃんをまもるようにキクちゃんのそばからはなれませんでした。

 

 アンデルセン童話集は、キリスト教の神に追われた北欧の神々の恨みの唄を子供たちのストーリーに書き換えたという説を聞いたことがある。野坂昭如も戦争童話集では戦争の悲劇を悲惨さ不条理を子供たちの悲しみに置き換えてストーリーを展開させたと読み終り考えさせられまています。

                                                                                                           2021.10.14

戦争童話集 野坂昭如著

​凧になったお母さん

 

 昭和20年8月15日

 山から海までさえぎるもの一つない焼跡を真夏の太陽が照りつけていた。赤茶けた荒野にも見えるが、電柱の焼け残りや便器、金庫、水道管、ミシンの金属部分その他様々な残骸があちこちに広がっていた。そこは、つい先程まで人が住んでいたあかしであった。

 この焼け跡の残骸にまぎれて一人の子供がうずくまっていました。歳は五歳なんですが、その表情は老人のようにしぼんでまったく生気はありません。その顔つきは眼ばかり大きく見開らきはしていますが何も見えていないように瞳は動かず顔中の皮膚を口許にたくしこんでしわがよっていました。

 子供の名はカッちやんといいます。カッちゃんは、この町が焼けてから今まで空ばかり見つめていました。米軍の飛行機がしきりに飛来する青空ですがそんなものには目もくれず、カッちゃんは空からきっともどって来るにちがいないお母さんを待ち続けていたのです。風に吹かれて凧のように舞い上がってしまったお母さんを・・・・・・。

 お母さんは、きっと戻って来る。お腹も減ったし喉もかわいたけどお母さんが凧のように舞い上がった所から一歩も動かずうずくまって待ちつづけました。べつに寂しくはありません。いつも空の上でお母さんが見ていてくれるように思ったからです。  

 終戦の詔勅(しょうちく)が神戸の焼け跡の上に流れる少し前、カッちやんの痩せ衰えた身体は風に吹かれて、空に舞い上がりました。お母さんが迎えに来てくれたのです。
お母さんとカッちやんは手をとりあって真夏の太陽の輝く空にはばたきながら神戸の焼跡をはるか下に見ながら空高く昇っていきました。
 10日ほど前にカッちやんとお母さんの住むこの町は空襲を受けました。少々立て込んでいるたげで、なんの工場も軍の陣地みーもない住宅地なのですが気まぐれにB29の落とした焼夷弾でたちまち炎上してしまったのです。
 港湾施設と軍需工場があるため神戸の町は毎日のように空襲に怯える神戸の町でカッちゃんは育ちました。お父さんは兵隊になって南方で戦っていました。二人の住む町にB29が来襲し焼夷弾を落とし住宅地は炎え続けたのです。この戦火の中を逃げ惑うカッちやんとお母さんは流れる汗でカッちやんをかばいつつ燃え上がる火炎に耐えて火に囲まれた公園の砂場になんとか逃げ込みました。公園を囲む家にはまだ火が移っていませんでしたが空気がだんだんと熱くなり吸う息でさえ感じられ水を探しましたが見当たりませんでしたお母さんはふと思いつき胸に手をあて汗をすくい取りカッちやんの顔に

「もう少しの辛抱よ、我慢してね」

 とかたりかけなからやさしく顔に移しました。やがてお母さんの汗もつきました。カッちやんはお母さんに頼っていると大丈夫だと信じていました。お母さんはカッちやんの顔をみながらせっかく生まれてきて美味しいものも食べず玩具だって遊園地だってよく知らないまま死んでしまうのか。世の中に、どんなに苦しい病気があるのか知らないけど、じりじりと火にあぶり殺されるなんて、これほどの苦痛はないだろう。どんな悪いことをしたというの、カッちゃんがお母さんは自分の悲しい思いを追いやり流れ出る涙をカッちやんのし肌へうつしていました。お母さんは、必死に子守歌を歌っていました。

「どうせ死ぬなら苦しみすくなく・・・・・」

 喉の乾きったお母さんの声はカッちやんの耳に聞こえません。

意識がもうろうとするなかカッちゃんが乳房を吸っているのを感じ乳房をわしづかみにして母乳をしぼりだしカッちやんの口に塗ってあげたが、突然お母さんの乳房から血が吹き出し抱きすくめているカッちやんにしたたり流れ出た。血はだんだん吹き出し、まんべんもなくカッちやんにおおいつくしてしまいました。

 やがて火は衰えていました。カッちゃんはようやく人心地を取りもどし自分に覆いかぶさっているお母さんの体をゆすりました。お母さんの体は干物のようにぺったんこになって浮いていました。

 「お母さんどこへ行くの」

 カッちやんがびっくりしてたずねるとお母さんはふだんと同じようににっこり笑います。

 カッチヤンが安心してついて行くと、いつものように空襲の跡の強い風が吹き荒れてお母さんの体は宙に浮きどんどん高くのぼっていった。

 「お母さん」とカッちゃんが呼ぶとその都度ふりかえりつつ凧のように高い青空に舞い上がり、天使のように素晴らしい姿で舞いながらやがて見えなくなってしまいました。

           
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
戦争童話集 野坂 昭如著
             焼跡のお菓子の木
 
 2か月まえ空襲で焼かれた神戸の町の焼跡には、もう夏草が茂っていいました。ここにたくさんの人が住んでいたとは信じかねる有様です。
 昭和20年ごろ5歳から10歳くらいだった子どもほど、みじめな存在はなかった。物心ついたときから、もう甘いものはなくなり、おいしいものを食べたという記憶すらありません。生きるため子供たちは集団で畑荒らしをしました。
  子供たちは焼跡の中にたくましく伸びる一本の木を見つけました。なぜかそこだけ焼けた形跡がないのです。ここはある屋敷跡だったそうです。その木から良い匂いがするので、その木の葉っぱをちぎって食べるととてもおいしいので、みんなこの木を「パンの木」、「お菓子の木」じゃないかと思いました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
このお屋敷跡には、以前早くパバをなくしママと8つになる病気がちの男の子が住んでいました。お金持だったので戦争さえなければ何不自由なく暮らせたのですが、やがて食糧がなくなりママはパパの古着を田舎へ運んで食糧と交換していました。
病気がちの男の子の好きなものは甘いお菓子でした。ママが材料を苦心して材料を集めケーキを作ってくれたりすると男の子は喜んで食べました。
 ある外国人のお菓子屋さんが店をたたむとき、最後のケーキを作りましたのでママは、バーム・クーヘンというケーキを手にいれ、毎日少しづつ薬のように男の子にあたえました。いよいよ最後にひとけらになったときバームクーヘンのかけらを空箱にいれました。
 時々、箱を開けて甘い匂いを嗅いで懐かしがっていましたが、空襲がやってきました。ママは男の子を防空壕に入れ
「どこへも行っちゃだめよ、ここにいれば大丈夫だから。ママはお家をまもらなければならないの」
と言って、自分は屋敷を守るために家の中にいました。そして家は焼け落ちママは二度と戻って来ませんでした。
 男の子は壕の中でママを待ちました。箱を開けてバームクーヘンの匂いをかぐとママの暖かい感触がよみがえってくるのです。男の子にはバームクーヘンの干からびたかけらがお菓子の木の種に思えてきました。
 壕の下の土に埋めました。しばらくするとむくむくと木が育ちはじめ大木になったとき男の子は壕の中で死にました。お菓子の木だけがのこりました。
  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
空襲の被害や、終戦の衝撃を克明に書き残した
 「18歳の日の記録」 昭和20年6月2日 田辺聖子
 

 2021年没後2年に発見されたノートに作家田辺聖子の書き残された日記が発見された。
文芸春秋2021年7月号に「灰になってしまった家を前に涙がぽとぽと、若き日は過ぎ去りやすい、空襲と家族と家族18歳の日の夢を綴った日記録」として掲載された。
残された昭和20年6月2日の日記は、
6月1日学校で一時間目の授業を受けているとき、警報がなる。東大阪市にある学校には被害はなく、大阪市の自宅付近が被害に遭っていることが分かって来る。
 
この警報は、第2回大阪大空襲で、9時28分から11時にかけて約1時間30分にわたって、大阪港と安治川右岸の臨港地区や大阪城南の陸軍施設周辺を空爆目標として509機のB29が来襲した。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 米軍の照準は福島区、港区、大正区、東区、北区周辺の大阪市西部を中心に被害を及ぼした。
 電車で鶴橋まで行き歩き始める「ああああ何里歩いたろう。無我無中の思いてである。もう一歩もうごけぬ。」と思いながらも歩き続ける。
 さて、鶴橋からの城東線は不通である。大阪まで歩かねばならぬ。勇を鼓して三人は歩きはじめた。爆弾による煙とか焼夷弾の煤などがまじった雨がふり、白いYシャツなどはほの黒い染みになって残る。
 至るところで交通遮断がある。まず上六まで出た。私は不案内だが大塚さんの案内で湊町へ通ずる道を歩いた。
 3月31日の空襲でここは一面の廃墟だった。このころから、すでに大阪方面の火災によって黒煙がもうもうと天に立ち込めていた。あたりは薄暗く1時を過ぎたたというにもう夕方のように陰気である。ぼうっと赤いあたりに時折ちろちろと紅蓮の舌がひらめく。私は地理を知らないので皆に引っ張られて歩いた。次第に疲れる。足をひきずった。荷物が重い、煤が目に入って痛む。しまいに荷物を二人に持ってもらった。
 私は機械的に歩いてやっとの思いで梅田新道に出た。梅田新道はものすごい。まだ炎炎と燃え上がっている。真っ赤な火だ。
ひとり絶望で叩きのめされ、のどが痛く、目がしむ。第百生命は全滅だ。きれいに中が抜けている。閉じたガラス窓からプワーと黒煙がふき出てくる。ざわめきながらとおる。
 通行人は、それぞれの家が心配らしく目もくれない。わずかな荷物を持ち出して呆然と立っている罹災者。ひっきりなしに通る消防署の自動車、そのまっただ中で私達は三人は別れた。二人は郊外の家になのでこれから大阪駅へ行くという。
私は、疲れのあまり顔が強張って、満足に礼も言えず荷物を受け取りしばらく休んで歩きだした。そのとき、私のこころは絶望で叩きのめされていた。
 福島方面とおぼしき方角は真赤に燃え黒鉛は沖し、カーン、カーンと消防車は絶え間なく通る。自動車、トラック、通行人の中を絶望にうちひしがれて、私はとぼとぼと歩いた。
 
   でもまだ一縷の希望を捨てずにいた。
 桜橋のあたりは火の海だ。あつくて火の粉がふりかかって通れない。やっと消えたやっとらしいやけあとにもまだ余燼がぶすぶす立ちのぼり鬼火のごとく火が各所に燃えている。
 熱気のためにかげろうのようなものがゆらゆらと焼けあとにこめている中を人間の頭より大きい火花がゆらりゆらりと人魂の如く飛んでゆくおそろしい空は一生忘れないものだと思った。
 火の海を進みいえのある辺りに着く。知り合いのおじさんに「えらいことでしたなぁ、お宅やけましたなぁ。」と言われる。
 母が向こうからやって来る。
 「聖ちゃん、家が・・・やけてしもうた・・・」声は涙で曇って鼻声だ。私も涙をこぼす。私は何もいえなかった。鼻がじんと痛く涙がぽかぽかと水槽の上へこぼれおちた。
 ああ、あの大きな居心地のよい広々とした家、生れて、さして18の年まで育ったあの美しい家、それが2、3時間の中に夢のように消えて灰になってしまうということがあり得るであろうか・・・。
 私の夢を育んでくれた白い壁の三畳間の勉強室、立派な本の数々、美しいノート、ミシン、オルガン、蓄音機、机、椅子、文房具から日用品、衣類に至るまで火はなめつくしたのか、それはあまりにもあっけない。
 お父さんも私が帰ったと聞いて、濡れしょぼれた格好で向こうからやってこられた。
「そうか、帰って来たのか家焼けたよ、はっはっはっ。これも戦争じゃ、仕様がんないわい。しかしこれで、皆無事揃うて、まず目出度とせんならん。」と、お父さんは、快活に言った。
 私は、たとえそれが不自然であっても、しおれた皆を元気づけようとする心がうれしかった。

 

 

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